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ジャン=マリー・ヴィアンネ : ミニ英和和英辞書
ジャン=マリー・ヴィアンネ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ジャン=マリー・ヴィアンネ : ウィキペディア日本語版
ジャン=マリー・ヴィアンネ[ちょうおん]

ジャン=マリー・ヴィアンネフランス語Jean-Marie Vianney, 1786年5月8日1859年8月4日)は、フランスの教区司祭であり、カトリック教会では教区司祭の守護聖人として崇敬されている。また、「アルスの司祭」としても知られている。教区での司牧活動による教区及びその周囲の劇的な霊的変容により、国際的に有名となった。カトリックではそれを高徳な生活、苦行、ゆるしの秘跡における不屈の司牧活動、そして聖母マリアや聖フィロメナへの熱烈な崇敬のためであるとしている。
==生涯==

===青少年期===
ヴィアンネは1786年5月8日、フランスのダルディイーの町で生まれ、同じ日に洗礼を受けた。彼の両親であるマチュー・ヴィアンネとマリー・ベルズは6人の子供がおり、彼は3番目であった。ヴィアンネ家は貧しい物を助け、ローマ巡礼の途中でダルディイーを通った放浪者の保護聖人である聖ベネディクト・ジョセフ・ラボをもてなしたカトリックの信者であった。
1790年までにフランス革命により、多くの忠実な司祭は教区で秘跡を授けるために政府から隠れることを余儀無くされた。ミサに与るためには、違法であってもヴィアンネ家は秘密裏に祈ることが出来る遠くの農場まで赴いた。司祭達は日々自分の生命を危険に晒していたので、ヴィアンネは彼等を英雄であると見做すようになった。初聖体の勉強は3人の司祭により、公に酒場で行われた。13歳で初聖体を受けた〔Walsh, Michael, ed. Butler's Lives of the Saints. (New York: Harper Collins Publishers, 1991), 236.〕。ミサの間は窓は塞がれ、蝋燭の光が外側から見えないようにされた。彼のカトリックの信心、とりわけ彼の堅信の準備に於ける時の秘密性はずっと続いた。
1802年、フランスでカトリック教会は再建され、国中に宗教的な平穏をもたらした。この時までに彼は将来の職業のことを考え、教育を強く望んでいた。彼の父が農場を離れて近隣の村のエキュリーにあるバレー神父の学校で習うことを許した時、彼は20歳であった〔Walsh, Michael, ed. Butler's Lives of the Saints. (New York: Harper Collins Publishers, 1991), 236.〕。学校は算数歴史地理ラテン語を教えていた。過去の教育はフランス革命によって中断されたので、ヴィアンネは学校では特にラテン語で苦労した。彼の神父になろうという強い望みとバレー神父の忍耐力により、彼は勉強を続けていた〔 Marshall, Bruce. The Curé of Ars. (New York: Sheed and Ward, 1952), 273.〕。
彼の勉強は1809年ナポレオン・ボナパルトの軍隊に招集された時に中断した〔Walsh, Michael, ed. Butler's Lives of the Saints. (New York: Harper Collins Publishers, 1991), 236.〕。彼は教会の学校の学生として免除されるはずであったが、ナポレオンはスペインと戦闘をするための兵士を必要としていたので、ある教区では免除を撤回していた〔http://www.newadvent.org/cathen/08326c.htm〕。彼がリヨンで報告をする必要があった2日後、病気になり入院した。その間、彼は招集されなかった。1月5日に退院してからローアンに他の招集のために送られた〔Walsh, Michael, ed. Butler's Lives of the Saints. (New York: Harper Collins Publishers, 1991), 236.〕。彼は教会に行って祈り、部隊から置いて行かれた。彼は部隊に戻るよう案内を申し出た若者と出会ったが、代わりにル・フォレズの山合いの脱走兵が集まるレ・ノエの村に導かれた〔Otten, S. (1913) "Jean-Baptiste-Marie Vianney, Blessed." Catholic Encyclopedia http://en.wikisource.org/wiki/Catholic_Encyclopedia_(1913)/St._Jean-Baptiste-Marie_Vianney〕。そこで農家と続きの牛小屋の中に隠れ、4人の子供がいたクロディーヌ・ファイヨ未亡人の世話の元に14ヶ月の間を過ごした〔Walsh, Michael, ed. Butler's Lives of the Saints. (New York: Harper Collins Publishers, 1991), 237.〕。
彼はジェローム・ヴァンサンと名乗り、その名前で村の子供の為に学校を開いた 〔http://www.ewtn.com/library/MARY/CURE.htm〕。冬の間の過酷な気候が村を孤立させたので、脱走兵等は憲兵からは安全であった。しかし雪が溶けると、憲兵は脱走兵を探しに、しきりに村に来るようになった。この探索の間、彼はファイヨ家の小屋の醗酵する干し草に身を隠した。1810年3月に公布された全ての脱走兵を赦免するという皇帝の勅令で〔Walsh, Michael, ed. Butler's Lives of the Saints. (New York: Harper Collins Publishers, 1991), 237.〕、彼はエキュリーに合法的に戻ることが出来、勉強を続けた。
1811年剃髪を受け、1812年にはヴェリエーレの小神学校へ通った。1813年の秋、彼はリヨンの大神学校に送られた。だが、あまりにも学力が低いと考えられた為、バレー神父の元に送り返された。バレー神父は、彼の敬虔さは無知を補うのに十分であると管区長を説得し、1815年6月には助祭に、そして1815年8月12日には司祭叙階された。その次の日に初ミサを捧げ〔Walsh, Michael, ed. Butler's Lives of the Saints. (New York: HarperCollins Publishers, 1991), 237.〕、バレー神父の助手に任命された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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