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ジェームス・ジョイス : ミニ英和和英辞書
ジェームス・ジョイス[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ジェームス・ジョイス ( リダイレクト:ジェイムズ・ジョイス ) : ウィキペディア日本語版
ジェイムズ・ジョイス[ちょうおん]

ジェイムズ・オーガスティン・アロイジアス・ジョイス(James Augustine Aloysius Joyce、1882年2月2日1941年1月13日)は、20世紀の最も重要な作家の1人と評価されるアイルランド出身の小説家詩人。画期的な小説『ユリシーズ』(1922年)が最もよく知られており、他の主要作品には短編集『ダブリン市民』(1914年)、『若き芸術家の肖像』(1916年)、『フィネガンズ・ウェイク』(1939年)などがある。
ジョイスは青年期以降の生涯の大半を国外で費やしているが、ジョイスのすべての小説の舞台やその主題の多くがアイルランドでの経験を基礎においている。彼の作品世界はダブリンに根差しており、家庭生活や学生時代のできごとや友人(および敵)が反映されている。そのため、英語圏のあらゆる偉大なモダニストのうちでも、ジョイスは最もコスモポリタン的であると同時に最もローカルな作家という特異な位置を占めることとなった。
== 生涯 ==

=== ダブリン時代(1882年 - 1904年) ===
ジェイムズ・ジョイスは1882年にダブリンの南のラスガーという富裕な地域で没落してゆく中流のカトリック家庭に、10人兄弟の長男として生まれた(他にも2人兄弟がいたが腸チフスで亡くなっている)。母メアリ・ジェーン・ジョイス(旧姓マリー)は敬虔なカトリック信者で、父ジョン・スタニスロース・ジョイスはコーク市出身で、小規模ながら塩とライムの製造業を営む、声楽と冗談を好む陽気な男であった。父ジョンと父方の祖父はいずれも裕福な家庭を築いた。1887年にジョンはダブリン市役所の徴税人に任命され、家族はブレイ郊外の新興住宅地へ引っ越した(その後ジョイス家は経済的に困窮して幾度にもわたる引越しを余儀なくされたため生家は現存せず、ジェイムズ・ジョイス・センター、ジェイムズ・ジョイス記念館はそれぞれ別の場所に建てられている)。このころジョイスは犬に噛まれて生涯にわたる犬嫌いとなった。他にジョイスの苦手なものとしては、敬虔な叔母に「あれは神様がお怒りになっている印だよ」と説明されて以来恐れるようになった雷雨などが知られている。
1891年、アイルランドの政治指導者で父ジョンも熱烈に支持していた「王冠なき国王」C・S・パーネルの死に際して、当時9歳のジョイスは「ヒーリーよ、お前もか」(''"Et Tu, Healy?"'')と題した詩を書いた(ティモシー・ヒーリーはパーネルを裏切り政治生命を絶った人物)。ジョンはこれを印刷し、バチカン図書館にコピーを送りさえした。同年11月、ジョンは破産宣告を受けて休職、1893年には年金給付の上で解雇された。この一件からジョンは酒浸りになり、経済感覚の摩耗もあいまって一家は貧困への道をたどりはじめることとなる。
ジョイスは1888年からキルデア州の全寮制学校クロンゴウズ・ウッド・カレッジで教育を受けたが、父の破産により学費を払えなくなったため1892年には退校せざるをえなかった。自宅やダブリンのノース・リッチモンド・ストリートにあるカトリック教区学校クリスチャン・ブラザーズ・スクールでしばらく学んだのち、1893年にダブリンでイエズス会の経営する学校ベルベディア・カレッジに招聘されて籍を置く。ジョイスが聖職者となることを期待しての招待であったが、ジョイスはそれ以上、カトリックの信仰を深めることはなかった(ただし、ジョイスの小説やエッセイにおいては"Epiphany"や"Jesuit"などのカトリックの用語が頻出し、カトリック神学者トマス・アクィナスの哲学もジョイスの生涯を通じて強い影響をもちつづけた)。
1898年、ジョイスは設立されてまもないユニバーシティ・カレッジ・ダブリンに入学し、現代語、特に英語フランス語イタリア語を学び、有能さを発揮した。また、ダブリンの演劇や文学のサークルにも活発に参加し、『Fortnightly Review』誌にイプセンの戯曲『わたしたち死んだものが目覚めたら』(''"Når vi døde vågner"'' 、1899年)の書評「イプセンの新しい演劇」(''"Ibsen's New Drama"'')を発表したりなどした。この書評はジョイスの最初に活字となった作品であり、ノルウェーでこれを読んだイプセン本人から感謝の手紙が届けられている。この時期のジョイスは他にもいくつかの記事と少なくとも2本の戯曲を書いているが、戯曲は現存していない。また、こうした文学サークルでの活動をきっかけとして1902年にはアイルランド人作家W・B・イェイツとの交友が生れている。ユニバーシティ・カレッジ・ダブリンでの友人たちの多くはのちのジョイスの作品中に登場している。
1903年、学士の学位を得てユニバーシティ・カレッジ・ダブリンを卒業したのち、ジョイスはパリへ留学する。医学の勉強が表向きの理由であったが、貧しい家族がジョイスの浪費癖に手を焼いて追い払ったというのが真相である。しかし、癌に冒された母の危篤の報を聞いてダブリンに引き返すまでの数ヶ月間も、あまり実りの無い自堕落な生活に費やしていたという。母の臨終の際、ジョイスは母の枕元で祈りを捧げることを拒否した(母と不仲であったためではなく、ジョイス自身が不可知論者であったことによる)。母の死後、ジョイスは酒浸りになり家計はいっそう惨憺たるものとなったが、書評を書いたり教師や歌手などをして糊口をしのいだ。
1904年1月7日、ジョイスは美学をテーマとしたエッセイ風の物語『芸術家の肖像』(''"A Portrait of the Artist"'')を発表しようと考え、自由主義的な雑誌『Dana』へ持ち込んだが、あっさりと拒絶された。同年の誕生日、ジョイスはこの物語に修正を加えて『スティーブン・ヒーロー』(''"Stephen Hero"'')という題の小説に改作しようと決意した。このころ、彼はゴールウェイ州コネマラからダブリンへやってきてメイドとして働いていたノラ・バーナクルという若い女性と出会った。のちの作品『ユリシーズ』はダブリンのある1日のできごとを1冊に封じ込めたものであるが、この「ある1日」こそ、二人が初めてデートした「1904年6月16日」にほかならない(ブルームズデイ参照)。
ジョイスはその後もしばらくダブリンにとどまり、ひたすら飲み続けた。こうした放蕩生活をしていたある日、ジョイスはフェニックス・パークで一人の男と口論の末喧嘩になり逮捕された。父ジョンの知人アルフレッド・H・ハンターなる人物が身元引き受け人となってジョイスを連れ出し、怪我の面倒をみるため自分の家へ招いた。ハンターはユダヤ人で、妻が浮気をしているという噂のある人物であり、『ユリシーズ』の主人公レオポルト・ブルームのモデルの一人となっている。またジョイスは、やはり『ユリシーズ』の登場人物バック・マリガンのモデルとなるオリバー・セント=ジョン=ゴガティ(のちに本業の医者としてだけでなくW・B・イェイツから称賛されるほどの文筆家としても知られるようになる)という医学生とも親しくなり、ゴガティ家がダブリン郊外のサンディコーヴに所有していたマーテロー・タワーに6日間滞在している。その後二人は口論になり、ゴガティが彼に向けて銃を発砲したためジョイスは夜中に逃げ出し、親戚の家に泊めてもらうためダブリンまで歩いて帰った。翌日、置き忘れてきたトランクは友人に取りに(盗りに?)行かせている。この塔は『ユリシーズ』劈頭の舞台となっているため現在ではジョイス記念館となっている。
その後まもなく、ジョイスはノラを連れて大陸に駆け落ちした。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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