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ショトジット・ライ : ミニ英和和英辞書
ショトジット・ライ
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


ショトジット・ライ ( リダイレクト:サタジット・レイ ) : ウィキペディア日本語版
サタジット・レイ

サタジット・レイベンガル語:সত্যজিৎ রায়, ヒンディー語:सत्यजीत राय, 英語:Satyajit Ray, 1921年5月2日 - 1992年4月23日)はインド映像作家。彼は映画界における巨匠の一人に挙げられる。映画制作以外にも、築き上げた彼独特の文体で執筆された小説や、カリグラフィーなど広告媒体の制作でも知られる。
サタジットはコルカタ市の、世界的に有名なベンガル人芸術文学一家に生まれた。彼の経歴は広告媒体の制作から始まり、ロンドン滞在時にフランス人映像作家のジャン・ルノワールと出逢い、またイタリア人ネオレアリズモヴィットリオ・デ・シーカの『自転車泥棒』を見たことから、自主映画の製作に身を投じた。
サタジットが制作した映画はドキュメンタリー短編映画も含めて37本ある。彼はまたフィクションの作家、出版者、イラストレーター、グラフィックデザイナー、そして映画評論も行った。1955年に公開されたレイ初の映画『』は、国際的な賞を11個授かり、その中にはカンヌ国際映画祭のBest Human Documentaryもある。この作品と、1956年の『』、1959年の『』の3作は「」と呼ばれる。
サタジットは脚本、キャスティング、映画音楽、編集から、制作した映画のクレジット・タイトルや広告のデザインまでも手がけた。彼は生涯において、インドの第32回ナショナル・フィルム・アワードや国際的な映画祭や式典でのものを含む数々の賞を受け、1992年にはアカデミー名誉賞を授かった。同年、インド政府はレイにを贈呈した。
== 生涯 ==

=== 生誕と家族 ===
サタジット・レイの先祖は少なくとも十世代前まで遡ることができる。祖父(Upendrakishore Ray)は作家、イラストレーターであり出版も行い、また哲学者そしてアマチュア天文学者、さらには19世紀のベンガルで興った宗教および社会活動ブラフモ・サマージの指導者でもあった。新聞U. Ray and Sonsの創刊も行い、これがサタジットに批判的精神の根底部分を形づくる要因となった。父はベンガル語で書かれたや児童文学の嚆矢であり、またイラスト制作や批判活動も行っていた。サタジットは、シュクマルと母スプラバの間に生まれた。
サタジットがわずか3歳の時に父シュクマルが亡くなり、一家はスプラバのわずかな収入で生きなければならなくなった。彼はコルカタので学び、ので経済学の学士(オーナーズ)を修めた。しかし既に彼の興味はいつもファインアートに向けられていた。1940年、母親はラビンドラナート・タゴールが設立したのへ進学するよう求めた。しかしコルカタに愛着を持つサタジットは、シャンティニケトンで学業生活を送ることに乗り気でなかった。しかし母の説得と、タゴールを尊敬していたこともあって、納得して進学した。シャンティニケトンでサタジットは東洋芸術に触れ、後に認めたところによると有名な画家であるやからたくさんの事を学んだ。後に、サタジットはムカルジーのドキュメント映画『The Inner Eye』を制作した。また彼はアジャンター石窟群エローラ石窟群エレファンタ石窟群を訪れ、そのから大きな刺激を受けた

1943年、サタジットはイギリス人が経営する広告会社D.J. Keymer に就職し、下級映像制作者 (junior visualiser) として月80ルピーの給料を得た。彼はグラフィックデザインを好み制作を上手くこなしていた。しかし、そこにはイギリスとインドの従業員間にいさかいがあり、イギリス人社員は給与も優遇されていた。さらに「依頼はどれも愚かしげなものばかり」と感じていた。後に、サタジットはD. K. Guptaが新たに設立した印刷会社の仕事にも関わり始めた。ここで彼は出版される書籍のカバーデザインを、好きなように任せられた。ここで、Jibanananda Dasの『Banalata Sen』と『Rupasi Bangla』、の『Maneaters of Kumaon』、ジャワハルラール・ネルーの『』など多くの本のカバーを制作した。また、が著したベンガル語の古典的小説『大地のうた (Pather Panchali) 』を子供向けに改訂した『Aam Antir Bhepu』(The mango-seed whistle)の表紙や挿絵も手がけた。そしてこの仕事から、サタジットは大きな影響を受けた。彼は初の制作映画にこの作品を選び、その革新的な映像のいくつかの場面でこの挿絵を用いた。
1947年サタジットは、らと共同でコルカタ映画組合Calcutta Film Societyを設立した。彼らは数多い外国映画を上映し、サタジットはこれらを視聴し真剣に学んだ。第二次世界大戦中には友人となった駐コルカタアメリカ陸軍の軍人から上映される最新のアメリカ映画情報を仕入れた。また、知り合いになったイギリス空軍のノーマン・クレールからは、映画だけでなくチェスや西洋クラシック音楽をともに楽しむようになった。
1949年、サタジットは長い交際期間を経て、いとこのと結婚した〔Arup Kr De, "Ties that Bind" by ''The Statesman,'' Calcutta, 27 April 2008. Quote: "Satyajit Ray had an unconventional marriage. He married Bijoya (born 1917), youngest daughter of his eldest maternal uncle, Charuchandra Das, in 1948 in a secret ceremony in Bombay after a long romantic relationship that had begun around the time he left college in 1940. The marriage was reconfirmed in Calcutta the next year at a traditional religious ceremony."(サタジット・レイの結婚は型破りなものだった。彼は大学を終えた1940年頃から始まった長いロマンティックな関係を経て、母方のおじカルカンドラ・ダスの一番若い娘に当る1917年生まれのビジョヤと1948年にボンベイでひそかに式を挙げた。二人の婚姻は、翌年にコルカタで挙げた伝統的な宗教儀礼に則った式が執り行われて、認められるものになった。)〕。夫婦は後に映画監督となる息子を得た。この年、フランス人映画監督ジャン・ルノワールが、『』の撮影のためにコルカタを訪れた。サタジットは彼を補佐して郊外に撮影に適した場所を見つけた。彼はルノワールに長く心にとどまる『大地のうた』を映画化する構想を話し、ルノワールはそれを進めるよう励ました。1950年、D.J. Keymer社はサタジットにロンドン本社勤務を命じ、当地に留まった3ヶ月の間に彼は99本の映画を鑑賞した。この中にはイタリアネオレアリズモのヴィットリオ・デ・シーカが制作した『自転車泥棒』(1948年)があり、彼は強い衝撃を受けた。後に語ったところによると、劇場を出たサタジットは映画制作者になる決心をしたという。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Satyajit Ray 」があります。




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