翻訳と辞書
Words near each other
・ シュワン鞘腫
・ シュワー
・ シュワー (キリル文字)
・ シュワーベン
・ シュワーベン語
・ シュワール・ライト
・ シュン
・ シュン (楽器)
・ シュンエイ
・ シュンエイ記念
シュンガ朝
・ シュンギク
・ シュンギク属
・ シュンクシタカラ林道
・ シュンクシタカラ湖
・ シュンクレティズム
・ シュンケイラ・デ・アンビーア
・ シュンケイラ・デ・エスパダネード
・ シュンスケ・オオクボ
・ シュンダバンズ


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

シュンガ朝 : ウィキペディア日本語版
シュンガ朝[しゅんがちょう]

シュンガ朝(シュンガちょう、紀元前180年頃 - 紀元前68年頃)は古代インドマガダ国に起こった王朝。マウリヤ朝の将軍だったプシャヤミトラが同王朝を滅ぼして建て1世紀余りの間続いた。
== 歴史 ==
マウリヤ朝最後の王に仕えたプシャヤミトラ・シュンガは紀元前180年頃にブリハドラタを暗殺し自ら王位に付いてシュンガ朝を創設した。プシャヤミトラの出自には不明点が多い。伝説では卑賤の生まれであったプシャヤミトラは将軍として頭角を表し、「軍の威容を誇示する」ためと称して閲兵式を挙行した。そしてそのまま軍勢を率いてブリハドラタを死に追いやったという。しかしインドの文献の多くによれば「シュンガ」はバラモン姓であり上述の伝説には疑義がある。
プシャヤミトラは王位を得るとパータリプトラを引き続き首都として、ガンジス川流域を中心にマウリヤ朝の旧領土を継承した。ただしマウリヤ朝はその末期には分裂状態にあり、プシャヤミトラもかつてマウリヤ朝が支配した領域全てを制圧するには到底到らなかった。特に中央インドでは新たにウィダルパ国が創建されシュンガ朝の強力な敵となった他、北西インドにはギリシア人が勢力を持っていた。
プシャヤミトラは仏教を手厚く保護したマウリヤ朝とは一線を画し、仏教教団を弾圧してバラモン教の復興に努め、バラモン教的な儀式を好んで執り行った。彼は当時仏教信仰の中心地であったケイ円寺(雞円寺)で仏僧を殺戮したという伝説が仏典に残されている。ただし、考古学的発見によってプシャヤミトラの廷臣には仏教徒が含まれていたことが知られており、彼がバラモン教を信奉したにせよ仏典に残されているほど徹底的な弾圧を実際に行ったのかどうかは疑問の余地が大きい。
プシャヤミトラはインドの著名な文法学者パタンジャリと同時代の人物であったといわれている。パタンジャリの記録によればヤヴァナ(ギリシア人)の王がサーケータ市とマディヤミカー市を包囲したとあり、これはプシャヤミトラ治世下のことであったと考えられている。
このギリシア人はバクトリア系の集団であったと考えられているが、王が誰であったのかについては議論がある。メナンドロス1世とする説が有力であるがデメトリオス2世とする説やまったく別の王とする説も存在する。また中央インドに侵入したギリシア人を、王子ヴァスミトラの指揮するシュンガ軍が撃退したという記録が存在するなど、当時シュンガ朝の主要な脅威はギリシア人の来寇であった。
プシャヤミトラが紀元前144年頃死去すると、王子のアグニミトラが王位を継いだ。彼は父王の治世時代から地方総督として活動している。ヴァスジェースタ(ジェータミトラ)王、継いでヴァスミトラが即位する頃にはギリシア人の侵攻も一段落し、その王アンティアルキダスなどとの間に使節のやりとりも持たれるようになった。
以後の王については不明点が多く大雑把にしか分からない。最後の王デーヴァブーティは大臣のヴァースデーヴァ(ヴァスデーヴァ)によって王位を奪われたが、その際の状況も詳しくは分からない。伝説によればデーヴァブーティは放蕩に耽る無能な王であったため、大臣ヴァースデーヴァはそれを利用して奴隷女を王妃に扮装させて暗殺させたという。
詳細は不明であるがヴァースデーヴァが紀元前68年頃にシュンガ朝に代わってカーンヴァ朝を建てたことは事実である。ただし、カーンヴァ朝の王達はプラーナ文献では「シュンガの臣下たる諸王」と記されており、カーンヴァ朝時代にも何らかの形でシュンガ家の地位が残存していたという説もある。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「シュンガ朝」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.