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ザ・フェデラリスト : ミニ英和和英辞書
ザ・フェデラリスト
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


ザ・フェデラリスト : ウィキペディア日本語版
ザ・フェデラリスト

ザ・フェデラリスト』()は、アメリカ合衆国憲法の批准を推進するために書かれた85編の連作論文である。これら論文のうち77編は、1787年10月から1788年8月まで「ザ・インデペンデント・ジャーナル」と「ザ・ニューヨーク・パケット」に連続して掲載された。これに他の8編を加えて編集したものが、『ザ・フェデラリスト:すなわち新憲法』と題されて1788年に2巻本でJ. & A. マクリーンによって刊行された〔Jackson, Kenneth T. ''The Encyclopedia of New York City'': The New York Historical Society; Yale University Press; 1995. p. 194.〕。この連作の正しい題は『ザ・フェデラリスト』であり、『ザ・フェデラリスト・ペーパーズ』という題は20世紀になってから使われるようになったものである。
『ザ・フェデラリスト』は、憲法で提案されている政府の仕組みについての哲学や動機を明確で説得力有る文章で綴られているために、現在でもアメリカ合衆国憲法の解釈では一次資料であり続けている〔Furtwangler, 17.〕。論文の筆者達は憲法の批准について賛成票を投じさせる影響力を持つことと、将来的な憲法の解釈を形作ることの双方を望んだ。歴史家のリチャード・B・モリスに拠れば、それらは「比類のない憲法の解説であり、後のアメリカ人作家による作品のどれよりも幅でも奥行きでも凌駕する政治学の古典である」としている〔Richard B. Morris, The Forging of the Union: 1781-1789 (1987) p. 309〕。
== 概要 ==
論文の掲載当時、執筆者は極秘扱いとされたが、明敏な評論家はそれがアレクサンダー・ハミルトンジェームズ・マディソンジョン・ジェイの3人の可能性が強いと推量した。1804年にハミルトンが死んだ後、彼が書き上げた論文のリストが公開された。それに拠ると論文の3分の2強はハミルトンが書いたとされており、マディソンの作品と見られていたものまで含んでいた(第49-第58、第62および第63の各篇)。1944年にダグラス・アデアが行った学術研究で下記のように執筆者を仮定した。これは1964年に行われた文章のコンピュータ解析でも裏付けられた。
* アレクサンダー・ハミルトン(計51編、第1、第6-第9、第11-第13、第15-第17、第21-第36、第59-第61、第65-第85)
* ジェームズ・マディソン(計29編、第10、第14、第37-第58、第62、第63)
* ジョン・ジェイ(計5編、第2-第5、第64)
* 第18篇から第20篇はマディソンとハミルトンの共作だった〔。
著者の3人は古代ローマの執政官プブリウス・ウァレリウス・プブリコラに因んで「パブリアス」(Publius)という共通の匿名を使った〔Furtwangler, 51.〕。プブリコラは共和政ローマ初期に復位を目論む王と戦った共和政の護持者として知られている。マディソンは生前に繰り返し憲法の父と呼ばれることを拒んではいたが、後世に概してそう呼ばれることが多く、バージニア州選出のアメリカ合衆国下院の指導的議員(1789年-1797年)、アメリカ合衆国国務長官(1801年-1809年)を歴任し、最後は第4代大統領(1809年-1817年)を努めた〔See, e.g. Ralph Ketcham, ''James Madison.'' New York: Macmillan, 1971; reprint ed., Charlottesville: University Press of Virginia, 1998. See also Irving N. Brant, ''James Madison: Father of the Constitution, 1787-1800''. Indianapolis: Bobbs-Merrill, 1950.〕。ハミルトンは1780年代を通じて憲法改定を主唱したものであり、フィラデルフィア憲法制定会議ではニューヨーク州の代表を務め、1789年から1795年まで初代アメリカ合衆国財務長官を務めた。ジョン・ジェイは1784年から連合規約が新憲法に変わる1789年までその下で外務担当官を務め、1789年にはアメリカ合衆国最高裁判所初代長官となり、1795年にはニューヨーク州知事に選出されて最高裁判所長官職を辞し、知事は2期務めて1801年に引退した。
『ザ・フェデラリスト』を構成する論文には多くの注目点がある。第10篇でマディソンが多数派による支配を防ぐ手段を論じ、共和制を拡大していくことを提唱しているところは、哲学的観点から85篇の中で最も重要と見なされており、第14篇ではマディソンがアメリカ合衆国を手段として取り上げ、それが広い領域の共和制に適切であると宣言し、憲法制定会議の制度的および政治的創造性について印象的な弁護で締め括っている。第84篇では、ハミルトンが提案された憲法は権利章典に相当する自由を保護していると主張する事で、権利章典を付け加えることによって憲法を修正する必要性が無いと主張している。やはりハミルトンが書いた第78篇は連邦議会や執行府に対して連邦裁判所による司法審査権の原理に基盤を与えている。第70篇では、ハミルトンが執行府の単独の強力な首長について主張している。第39篇では、マディソンが「連邦主義」と呼ばれることになるものを明確に説明している。第51篇では、マディソンが「人間性についてのあらゆる省察の中で最大のもの」として政府の正当化のためにしばしば引用される印象的論文の中で抑制と均衡のための論議を提供している。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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