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ザルイート事件 : ミニ英和和英辞書
ザルイート事件[ざるいーとじけん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [こと]
 【名詞】 1. thing 2. matter 3. fact 4. circumstances 5. business 6. reason 7. experience 
事件 : [じけん]
 【名詞】 1. event 2. affair 3. incident 4. case 5. plot 6. trouble 7. scandal 
: [くだん, けん]
 【名詞】 1. matter 2. case 3. item 

ザルイート事件 : ウィキペディア日本語版
ザルイート事件[ざるいーとじけん]

ザルイート事件ヘブライ語:אירוע זרעית)とは、2006年7月12日イスラエル国防軍所属の2名の兵士、エフード(ウディ)・ゴールドワッサー(1975年7月19日 - 2006年7月12日)とエルダッド・レゲヴ(1980年8月16日 - 2006年7月12日)が、レバノンとの国境付近の村ザルイートでヒズボラによって誘拐された事件。ザルイート事件という名称は国防軍によるもので、イスラエル国内の主要メディアなどでは、レバノン国境におけるイスラエル国防軍兵誘拐事件(חטיפת חיילי צה"ל בגבול לבנון)、あるいは被害者の名をとって2006年7月エフード・ゴールドワッサー、エルダッド・レゲヴ誘拐事件(חטיפת החיילים אהוד גולדווסר ואלדד רגב ביולי 2006)などと呼ばれている。第2次レバノン紛争はこの事件をきっかけに勃発している。事件から2年と4日が経った2008年7月16日、ヒズボラとの捕虜交換の一環として被害者2名は遺体となって祖国イスラエルに帰還した。
== 事件の背景 ==

=== 2000年のレバノン国境安全保証地帯からの国防軍撤退後 ===
1985年7月の第1次レバノン紛争(第6次中東戦争)終結以降、イスラエル国防軍はイスラエルとレバノン国境間のレバノン側領土幅数キロメートルを安全保障地帯と定めて占拠し、イスラエル北部の居住地に対するレバノン側からの砲撃を防いでいた。レバノンのなかでも地理的に隔離されているこの一帯はヒズボラとアマルの拠点になっていたからである。それから15年間、国防軍はテロリストの攻撃により多大な被害を受けていたのだが、2000年5月にイスラエル首相エフード・バラク(当時)は世論の圧力を受けて同地帯からの国防軍撤退を決定する。
国防軍の撤退後、ヒズボラは、同地帯はもちろんレバノン南部での勢力を拡張した。国防軍が放棄した陣営を占拠し、国外から大量の兵器を入手するなどして兵力の増強に努めた。また、相互扶助のネットワークを築いて住民からの支持を得ることに成功し、同地域を完全に支配下に置いた。二度と国防軍の侵入や占領を許さないため、長距離ロケットを配備するなど軍備の拡張は止まることがなかった。つまり、イスラエルと対等の戦力を持つことで同地域における軍事的な均衡を保とうと目論んでいたのである。
安全保障地帯から国防軍が撤退して以降、イスラエルに対するヒズボラの攻撃は激減し、それは6年間続いた。当時の好景気もあってイスラエルの国境地帯の各居住地は観光産業を中心に繁栄し、平時の恩恵を享受していた。もっとも、平時といってもそれは相対的なものでしかなく、数が月に一度の頻度でヒズボラからの攻撃は継続していた。攻撃目標は国防軍の駐留地が中心だったのだが、まれに一般市民からも死者が出ていた。この間の攻撃により、6名の市民と14名の兵士が命を落としている。
首相バラクは国防軍の撤退を前にしてレバノン側に、「撤退を機にレバノンからイスラエルに対して戦火の火蓋が切られるのでれば、レバノン全土が焦土と化すであろう」と警告している。しかし、ヒズボラの攻撃に対する国防軍の報復は、おおむね彼らの拠点に対する空爆や砲撃などピンポイントの攻撃に限られていた。これは、報復の連鎖を極力排除することを目論んだバラク政権の方針であった。次期首相アリエル・シャロンも前政権の方針を引き継ぎ、攻撃対象をヒズボラのみに限定するなど自制していた。この政策はおおむね支持されていたのだが、過度の自重はイスラエルの権威の失墜につながりかねないとの反発を招くこともあった。
事実、南レバノンの住民や国連の監視団からは、イスラエルに対する攻撃などのヒズボラ側の条約違反は、空爆をはじめとしたイスラエル側の条約違反によって引き起こされていると一方的に非難されていた〔ハアレツ〕。また、大多数のレバノン人は、国防軍によるレバノン領土の空爆、およびイスラエルに敵対する勢力に加えられた暴力に関して同国を断罪していた〔ynet/イェディオト・アハロノト〕。
一方、撤退から数ヶ月後の2000年10月7日、レバノン人の村シャバアから数キロメートル南のヘルモン山とドヴ山の間の前線、すなわち国連の管理区域の目と鼻の先で、国防軍の兵士3名(いずれも1等軍曹)、ベンヤミン・アブラハム、アディ・アヴィタン、オマル・サウィードがヒズボラに誘拐されるという事件が発生(ただし誘拐時には3名ともすでに殺害されていた)。9日後の10月16日には予備役将校エルハナン・タンネンバウムがレバノン渡航中に誘拐される(後に麻薬取引のために同国に渡ったことが明らかになる)。イスラエル政府は2004年、兵士3名の遺体とタンネンバウムの身柄の返還を引き換えに、約1000人のレバノン人とパレスチナ人の囚人の釈放を余儀なくされた。
この捕虜交換の成功はレバノン人とパレスチナ人にインスピレーションを与えることになった。すなわち、交渉の切り札として利用するために国防軍兵士を誘拐するという新しい戦術を教えてしまったのである。これに味を占めたヒズボラの幹部は、イスラエル国内で拘束されているパレスチナ人の囚人と残りのレバノン人の囚人(この中には1979年にナハリヤでイスラエル市民2名と警官2名を殺害したレバノン国籍のテロリスト、サミール・クンタルも含まれている)の解放を目論み、国防軍兵士の誘拐をほのめかすなどしてイスラエル政府を脅かした。2005年11月21日、レバノンとの国境付近の村ガジャルにて国防軍の兵士がヒズボラによって誘拐されそうになったのだが、この試みは未遂に終わっている。
2004年9月2日、イスラエルが待望した国連安保理決議1559号が可決された。この決議は、シリア軍のレバノンからの撤退と、ヒズボラをはじめとしたレバノン国内の民兵組織の武装解除、および解体を義務付けるものだった。また、レバノンにおけるシリアの影響力を排除した杉の革命の勢力拡大がヒズボラの解体をもたらすと観測されていたのだが、いずれもが期待を裏切る結果となった。ヒズボラは依然として勢力を維持し、さらにはレバノン政界にも進出するようになり、選挙ではシーア派の政党、とくにナビ・ベリ率いるアマルを圧倒するまで支持を集めた。ヒズボラが支持される理由は、その実績もさることながら、イスラエルがレバノンに攻撃を仕掛けてきた場合、現状では国土を守れる唯一の組織だからである。第2次レバノン紛争の勃発時、フアード・シニオラを首相とする内閣にはヒズボラから選出された大臣が2名いたことが確認されている(そのうちの1名は資源開発省の大臣であった)。もっとも、レバノン国内ではシリアとの関係上、ヒズボラに対する批判は絶えないでいる。
2005年、イスラエルでは「砕氷計画」(תוכנית שוברת הקרח)の準備が進められていた。この計画は最終的には施行されなかったのだが、レバノンとの国境地帯における軍事活動の段階的な拡張に関する青写真が描かれていたと言われ、ウィノグラッド委員会の報告でも言及されている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ザルイート事件」の詳細全文を読む




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