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サム・ランシー : ミニ英和和英辞書
サム・ランシー[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ラン : [らん]
 【名詞】 1. (1) run 2. (2) LAN (local area network) 3. (P), (n) (1) run/(2) LAN (local area network)
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

サム・ランシー : ウィキペディア日本語版
サム・ランシー[ちょうおん]

サム・ランシー(, 1949年3月10日 - )は、カンボジア政治家カンボジア救国党党首(初代)。
財務相、下院議員サム・ランシー党党首(初代)、クメール国民党(初代)を務めた。
== 経歴 ==
サム・ランシーは1949年にプノンペンに生まれた。彼は1965年にフランスへと移住し、学生生活を送ったのちにパリの金融企業に就職。常務取締役 兼 投資顧問を務める〔 Brown, Zasloff (1998), p. 240〕。
その後、フンシンペックの一員となり、1992年にカンボジアに帰国した翌年にシェムリアップ州の州議会議員に選出された。彼は財務相を務めるが、1994年の不信任決議によって議会を追放され、翌年の1995年にクメール国民党 (KNP) を設立し、1998年の国民議会選挙の前にサム・ランシー党 (SRP) と名称を変更した。同選挙でサムはコンポンチャム州の州議会の一員に選出され、SRPは14%の得票数を獲得。2003年の選挙においては22%にまで得票数を引き上げる。
しかしその後、SRPの幹部であるChea PochとCheam Channyと共に不逮捕特権を剥奪され、これを受けて2005年2月3日にサムは国外逃亡するが、Cheam Channy は逮捕され、軍事刑務所に拘留された〔Cambodia: Opposition Politicians Arrested, Forced to Flee , February 7, 2005, ヒューマン・ライツ・ウォッチ〕。ランシーはカンボジア人民党フンシンペックの連立政権を非難し、さらには2004年1月22日に発生したSRP系列下の労働組合のリーダーであるチア・ヴィチアの殺害に関与したとしてフン・センを非難したことで名誉毀損の罪で告訴された。
当時の米国大使館は政府が抵抗勢力を抑圧しようとしている事態に危惧を示し、他国の大使館や国内外の団体も同様の態度を示した。2005年12月22日、サムは先の名誉毀損に関して欠席裁判にかけられ、懲役1年6ヶ月と約1,4000米国ドルの賠償金を支払うよう言い渡されるも、2006年2月5日にノロドム・シハモニ国王の恩赦を受け、その5日後にカンボジアに帰国した。
2009年10月に、ランシーはスヴァーイリアン州チャントリア郡におけるカンボジアとベトナムとの国境線が本来のカンボジア領よりも内側に引かれていることに抗議を示すために地域住民と共に国境杭を引き抜いた。
ベトナム政府の外務省はランシーたちの行為を非難し、カンボジア政府に対して現時点で確定している国境線を遵守するよう要請。その声明の中でサム・ランシーの行動を「公共物を破壊する誤った行為であり、2国間の法や条約、同意を破っている」と非難した。
10月25日にランシーは民族間の対立の誘発と器物破損の罪に問われ、11月には国会によって不逮捕特権を剥奪された。
その後、スヴァーイリアン地方裁判所に出頭を命じられるも姿を現さず、2010年1月1日には逮捕令状を出されるも、その頃ランシーは既にフランスへと亡命していた。2010年9月には欠席裁判によって懲役10年の実刑を言い渡される〔http://www.nytimes.com/2010/09/24/world/asia/24briefs-Cambodia.html?_r=1&〕。その後、2013年7月12日にノロドム・シハモニ国王の恩赦によってカンボジアへの帰国を許される〔http://www.bbc.co.uk/news/world-asia-23358326〕も、7月28日の総選挙への立候補は許されなかった〔http://www.phnompenhpost.com/national/nec-reiterates-rainsy%E2%80%99s-ineligibility〕。
この選挙に不正があったと主張する救国党は国民議会をボイコットし、政治的膠着が続くことになる。しかし、2014年7月22日のサム・ランシー=フン・セン会談により、救国党の議会復帰が合意される。サム・ランシーも比例候補者名簿に事後的に加わることが認められ、同年8月5日の議員就任宣誓式に出席した〔初鹿野直美「2014年のカンボジア 与野党対話による膠着状態の解決」 『アジア動向年報2015』 アジア経済研究所、2015年、285-286ページ。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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