翻訳と辞書
Words near each other
・ サミュエル・フルトン
・ サミュエル・フレデリック・グレイ
・ サミュエル・フード
・ サミュエル・ブラウン
・ サミュエル・ブラウン (市長)
・ サミュエル・プレスコット・ブッシュ
・ サミュエル・ヘンリー
・ サミュエル・ベケット
・ サミュエル・ベケット級哨戒艦
・ サミュエル・ベックルス
サミュエル・ベラミー
・ サミュエル・ペイジ
・ サミュエル・ペイジ (俳優)
・ サミュエル・ペイジ (曖昧さ回避)
・ サミュエル・ページ
・ サミュエル・ホイ
・ サミュエル・ホイットモア・ボッグス
・ サミュエル・ホイットモア・ボッグズ
・ サミュエル・ホルト
・ サミュエル・ホーキンス


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

サミュエル・ベラミー : ミニ英和和英辞書
サミュエル・ベラミー[ちょうおん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

サミュエル・ベラミー : ウィキペディア日本語版
サミュエル・ベラミー[ちょうおん]
サミュエル・ベラミー(、1689年2月23日1717年4月26日)はイングランド出身の海賊である。彼が海賊として活動していたのは1年ほどだったが、活動期間内に拿捕した船舶は53隻、獲得した金額は120万ドル相当(2008年換算)に上り、同時代の海賊の中では誰よりも稼いでいた。28歳のとき、コッド岬沖を航海中、嵐に遭い旗艦とともに消息を絶つ。以来、1984年に沈没したウィダー号が発見されるまで、彼の存在は“ブラック・サム”(Black Sam)の異名とともに伝説の中にあった。拿捕した船員への寛大な対応から、“海賊のプリンス”(Prince of Pirates)とも呼ばれ、義賊的な海賊として伝えられた。
==略歴==
サミュエル・ベラミーはデヴォン州にて、父スティーブンと母エリザベスとの間に6人兄弟の末っ子として生まれた。サミュエルが洗礼する3週間ほど前に母エリザベスが他界〔Colin Woodard 『The Republic of Pirates: Being the True and Surprising Story of the Caribbean Pirates and the Man Who Brought Them Down』(2008) Mariner Books ISBN 978-0156034623〕。前半生はイギリス海軍に所属して幾つかの戦いを経験している。妻子はいたかもしれないが、記録には残っていない。
1715年にベラミーはコッド岬にいる親戚を訪れているが、伝説によれば彼はそこで“の魔女”の異名を持つグッディ・ハレット(Goody Hallett)という美女と出会っている。1934年に出版されたコッド岬の民話集、『The Narrow Land: Folk Chronicles of Old Cape Cod』では、著者エリザベス・レイナードによって“マリア”の名前が付けられた。当時清教徒が多く住むニューイングランドカソリック風の名前は似つかわしくないにも関わらず、その名はグッディの俗称となった。現代の作家は、マライア(Mariah)やマリー(Mary)といった名前で変更を試みている。彼女の年齢、そして既婚者か否かは作者によって異なっている。16歳から25歳ほどの若い女性として書かれたいたり、あるいは老婦人として登場した作品もある。ある作品では彼女の両親はベラミーに好意を持っていたが、この貧乏で自信家の船乗りが夫になるとは思ってもいなかったとしている。いずれにせよ、グッディが既婚者であるということは共通しており、富を得て彼女を連れ去ろうとするベラミーの意図があったとしている〔1) Kathleen Brunelle 『Bellamy's Bride: Search for Maria Hallett of Cape Cod』 (2010) Arcadia Publishing ISBN 978-1596292543 2) Michael Fitzgerald, CW Swift pbl 『1812; a tale of Cape Cod』 (2011) Ulan Press 3)Kenneth J. Kinkor 『WHYDAH SOURCE BOOK』Whydah Pirate Museum〕。
いずれにせよ、ベラミーは1716年前半に前年遭難したスペインの輸送船を探す一団に加わってコッド岬を立った。この時、彼らに資金を提供したのがロードアイランド州司法長官ジョン・ウィリアムスの息子、パルグレイヴ(PalgraveあるいはPalsgrave, Paulgrave, Paulgraves, Paulsgraveとも)、あるいはポール・ウィリアムス(Paul Williams)だった。彼がコッド岬を離れた後、グッディがベラミーの子を宿していることが発覚した。彼女は出産後、食べ物を探すために子供をとある納屋に隠しておいたが、戻った時には子供は藁に埋もれて窒息死していた。ある作品では、その納屋はチャールズ・ノウルズが所有するものだったとし、別の作品では後に彼女を追放した裁判官ジョセフ・ドーンのものとしている。いずれにせよ、彼女は殺人罪で告発され、に収監された。ちなみに、この刑務所はアメリカで最も古い木造の刑務所であり、後に幽霊の出没スポットとして知られるようになる。しばしば逃走して海岸を徘徊するなど奇行が見られたため彼女の刑期は短かったが、彼女は町を追われ、に移り住みベラミーを待った〔。一方、捜索隊は発見の見込みがないことからベンジャミン・ホーニゴールドをリーダーに海賊稼業に転身した。彼が指揮したマリアンヌ号(Marriane)の航海士には“黒髭”で知られるエドワード・ティーチもいた。
1716年の夏頃、海賊たちはホーニゴールドが故郷であるイングランドの船舶を攻撃しないことに不満を募らせていた。多数決の結果、ホーニゴールドはリーダーとして相応しくないという結果になり、彼は支持した腹心たち(これにはティーチも含まれていた)とともに船団を離脱した。残った90人の船員はベラミーをリーダーに選出した。
その直後、ガレー船スルタナ号(Sultana)を拿捕し、ポール・ウィリアムスを船長に据えた。そして、1717年春頃にイスパニョーラ島キューバの間、ウィンドワード海峡を航海中のウィダー号を拿捕した。ウィダー号は1715年にイギリスで建造された、全長120フィート(約31m)、重さ300トン、18門の大砲を設えた奴隷運搬船で、アメリカとアフリカとの奴隷交易の最中だった。船には金やインディゴキナ皮(アカキナノキの樹皮。キニーネの原料)、象牙、そして312人の奴隷を獲得した。ウィダー号(拿捕当時は“キングダム・オブ・ウィダー”(Kingdom of Whydah)号だった)の船長はかつてヘンリー・モーガンの部下であっただったが、3日間の追跡の末に降伏。ベラミーはスルタナ号と旗艦を交換するという条件でプリンスと和睦したが、この事はベラミーの寛大さを示す一例となった。ベラミーは改名したウィダー号の大砲を28門に増強し、カロライナの東海岸を北に進み、ニューイングランドに向かった。
ベラミーは背が高く屈強だが、礼儀正しいこざっぱりした男として同時代の人や記録者に知られていた。彼は粉をはたいたかつらを好まず、“ブラック・サム”の異名が示した長い黒髪を簡素な紐で結わえていた。黒色の高価な服装を好み、腰に差した4本のを武器にしていた。

船長としてのベラミーはとても民主的で、船員からの信望があった。彼は自らをロビン・フッドになぞらえ、部下たちを“ロビン・フッドの部下たち”と称した〔。彼は優れた戦術家でもあり、強力な火力を誇るウィダー号と、軽量だが速度の出る僚艦との連係攻撃で相手の損害を抑えながら効率的に拿捕していった。
ベラミーはまた、情熱的な弁舌を振るう雄弁家として知られている。彼が4月上旬にサウスカロライナ沖で、ビーア(Beer)船長率いるボストン船籍のスループ船を拿捕した際に振るった口上は、チャールズ・ジョンソン(ダニエル・デフォーが正体とも言われている)によって、『海賊史』に掲載され、一躍彼の代名詞になった。ちなみに、ビーアの船はベラミーとウィリアムスの制止も聞かない部下たちに沈められ、ビーアは島に置き去りにされた。



抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「サミュエル・ベラミー」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.