翻訳と辞書
Words near each other
・ コルネリオ・ヴェラスケス
・ コルネリス
・ コルネリス・コート
・ コルネリス・デ・ウィット
・ コルネリス・デ・ヤヘル
・ コルネリス・ド・ヘーム
・ コルネリス・ファン・ステーニス
・ コルネリス・ファン・ドールン
・ コルネリス・ファン・ナイエンローデ
・ コルネリス・ファン・ハウテン
コルネリス・ファン・ハールレム
・ コルネリス・ファン・フォレンホーフェン
・ コルネリス・ファン・プーレンブルフ
・ コルネリス・ベルクハウアー
・ コルネリス・ヨハネス・ファン・ハウテン
・ コルネリャー・デ・リョブレガート
・ コルネリュウス・カストリアディス
・ コルネリ工務店
・ コルネルス・アントニー・ヤン・オーデマン
・ コルネル・ゲオルゲ


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

コルネリス・ファン・ハールレム : ミニ英和和英辞書
コルネリス・ファン・ハールレム[ちょうおん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

コルネリス・ファン・ハールレム : ウィキペディア日本語版
コルネリス・ファン・ハールレム[ちょうおん]

コルネリス・ファン・ハールレム (Cornelis Cornelisz. van Haarlem, 1562年-1638年)は、ハールレム出身の画家。ハールレムのマニエリスム派の主要なメンバーであり、バルトロメウス・スプランヘルの影響を多大に受けた画家である。スプランヘルの素描はカレル・ヴァン・マンデルによって1585年にハールレムにもたらされ、その地の画家たちに影響を与えた〔Slive, 8〕。ファン・ハールレムは主に肖像画や神話画、宗教画を描いた。当初はサイズの大きな作品で、イタリア風の解剖学的に不自然なねじれた裸体像を描いていたが、後にはオランダの伝統的な写実へと作風が変わっていった。
==生涯==
裕福な家庭に生まれるが、ファン・ハールレムの両親は1568年に八十年戦争の影響下、スペイン軍を避けてハールレムから移動した。しかしファン・ハールレムはハールレムに残り、画家のピーテル・ピーテルス・アールツェンに育てられその元で修業した。後にルーアンアントワープでも学んだ。
ファン・ハールレムは市でも知られた人物となり、1583年にハールレム市から依頼を受けて市民軍の集団肖像画を描いた。後に彼は市の画家として市から多くの依頼を受けた。
カレル・ヴァン・マンデルバルトロメウス・スプランヘル等と共にファン・ハールレムはハールレム・アカデミー (Haarlem Academy) を設立した。これはおそらく非公式のグループで、集まってヌードデッサンをしたり、作品について意見を交わすものだったと思われる〔Slive, 8〕。また、その市の聖ルカ組合を再組織する点でも重要な役割を果たした。ファン・ハールレムの弟子コルネリス・クラース・ヘダ(ウィレム・クラース・ヘダの兄弟)がいるが、この人物はインドのビジャープルスルタンの元で活躍し、ファン・ハールレムの作風をインドに伝えた〔Gijs Kruijtzer,Xenophobia in Seventeenth-Century India (Leiden: Leiden University Press, 2009), 21〕。
ファン・ハールレムは1603年より前にハールレム市長の娘Maritgen Arentsdr Deymanと結婚した。1605年には義理の父親の財産の1/3を相続している。1631年もしくは32年には孫のコルネリス・ベーハが生まれており、彼もまた画家となりヤン・ステーンなどに影響を与えた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「コルネリス・ファン・ハールレム」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.