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ゲラン : ミニ英和和英辞書
ゲラン[らん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ラン : [らん]
 【名詞】 1. (1) run 2. (2) LAN (local area network) 3. (P), (n) (1) run/(2) LAN (local area network)

ゲラン : ウィキペディア日本語版
ゲラン[らん]

ゲラン (Guerlain) は、フランス香水化粧品メーカー。
1828年にピエール=フランソワ=パスカル・ゲラン (Pierre François Pascal Guerlain) がパリのリヴォリ通りに店を開いたことに始まる。皇后ウジェニーに献上した香水「オー・デ・コロン・イムペリアル」〔カナ表記はゲラン・ジャポンによる名称、より原音に近いものは「オー・ドゥ・コローニュ・アンペリアル」〕 (Eau de Cologne Impériale) により帝室御用達となる。1889年に発表したジッキー (Jicky) が合成香料を用いた近代香水として高い評価を受ける。その後もルール・ブルー (L'Heure Bleue) 、ミツコ (Mitsouko) 、シャリマー (Shalimar)、夜間飛行 (Vol de Nuit) などの香水を出して名声を得た。ゲランはその香水の多くにバカラ社製の香水瓶を用いた。1914年にシャンゼリゼ通り68番地に店舗を開く。ゲランは4代目調香師のジャン=ポール・ゲランまでの間、ゲルリナーデ (Guerlinade) と呼ばれる香りの調合法を受け継いで調香を担った。ゲランは創業以来同族経営を行なっていたが、1987年以降はLVMHによる企業買収を受けて1994年にその傘下に入った。2011年時点で約80の国と地域に事業展開している〔「ブランド研究 (55) ゲラン 香りで時代を包む」 読売新聞 2011年4月29日東京朝刊、朝刊特集A面、21ページ〕。
== 歴史 ==

1798年ピエール=フランソワ=パスカル・ゲランはフランス北部のピカルディ地方に生まれた。ピエール=フランソワ=パスカルは白目細工職人である父との確執で故郷を後にすると渡英して石鹸製造に携わった。また化学と医学を学んだ〔モリス, 中村 (1992) pp.161-162.〕。1828年、帰仏後のピエール=フランソワ=パスカルは伯父が所有する、パリ・リヴォリ通り42番地のに最初のブティックを開いた。ピエール=フランソワ=パスカルはイギリスからの輸入石鹸を販売し、また複数の花の香りを用いた香水を調香して上流階級の顧客から支持を集めた〔松井 (1993) p.130〕〔モリス, 中村 (1992) pp.161-163.〕。当時は単一の花の香りで生成される香水が主流であり、直接身にまとうのではなくハンカチや手袋・シーツに香りを付けていた。ゲランはフレグランススキンケア製品を扱う店として始まった。1830年にボルドーワイン入りのリップクリーム「ボーム・デ・ラ・フェルテ」 (Baume de la Ferté) 〔Fiona Bell (1998-06-13). The firm that created designer scent TheIndependent. 2012年3月17日閲覧〕と、現存の原型となるリキッド状のリップ「リキッド・ローズ・エキストラクト」 (Liquid Rose Extract) を発売した。1840年にはコールドクリーム「ア・ラ・フレーズ・プール・タン」 (Crème à la fraise pour le teint) を発売、オーストリア皇后エリーザベトがこれを愛用したと伝わる〔Exposition d’art contemporain : Guerlain fête ses 180 ans Marie Claire. 2012年3月17日閲覧〕。ゲランは1842年にベルギー王妃から御用達許可書を受け、1844年にヴィクトリア女王の御用香水商となるなどヨーロッパの王侯貴族から支持を集めた〔シャザル, 高波 (2010) p.169〕。ゲランは1844年にパリの中心地であるラ・ペ通り15番地に店舗を構え〔、1851年にはロンドンに出店した〔。ゲランがラ・ペ通りに進出した時期は文献によって異なり、他に1840年・1841年・1848年の記述が見られる〔。
1853年、ゲランはナポレオン3世の皇后ウジェニーに「オー・デ・コロン・イムペリアル」 (Eau de Cologne Imperiale) を献上した。この香水は1830年に調香した「フルール・ドゥ・セドラ」 (Esprit de Fleurs de Cedrat) をポシェ・エ・デュ・キュルバル社が製作した香水瓶「ゴールデンビーボトル」に封入したものである〔シャザル, 高波 (2010) p.357〕。シトラス系の香水「オー・デ・ゲラン」 (Eau de Guerlain) を封入していたとの説もある〔ダブ, 新間 (2010) pp.226-227.〕。この香水瓶は帝政様式を持ち、ラ・ペ通りにあるヴァンドーム広場の円柱をモチーフに、ナポレオン3世のシンボルである69のミツバチの意匠を側面に純金を用いて描き散りばめていた〔エドワーズ (2005) p.15〕。ピエール=フランソワ=パスカルはこの香りの成功により帝室御用達調香師の称号を得た。ピエール=フランソワ・パスカルは1864年に亡くなり、息子であるエメとガブリエルが調香と経営を分業して受け継いだ。ゲランはニキビやニキビ跡の赤みをケアする「クリーム・カンフレア」 (Crème Camphrea) を1870年に〔Elsa McAlonan (2012-03-08). And all because the lady loves nappy cream... and other tried and tested beauty classics Mail Online. 2012年3月17日閲覧〕、
初めてのスティックタイプのリップ「ヌ・ムブリエ・パ」 (Ne M'oubliez Pas) を1871年に発売した〔PERFUMES&COSMETICS GUERLAIN LVMH. 2012年3月17日閲覧〕。ゲランはこの時期までにフランスにおける高級香水商の地位を確立した〔ジョーンズ, 江夏, 山中 (2011) p.23〕。

1889年、ゲランは「ジッキー」 (Jicky) を発表する。この香水は天然素材と合成香料を加えて創った初期の近代香水である。実際に合成香料を最初に用いた香水は1882年にウビガン社のポール・パルケが作成した「フジュール・ロワイヤル」であるが、ジッキーは天然素材のローズマリーベルガモットラベンダーなどに加え、合成香料のクマリンバニリンをわずかに用いたことにより香りの多様な表現に成功して高い評価を受けている。シベットの含まれるジッキーの香りは女性にとって革新的なものであり当初は男性を中心に評価されたが、1910年代に入って女性からの支持をも集めた〔エドワーズ (2005) pp.16-17.〕〔ジョーンズ, 江夏, 山中 (2011) p.17〕。フゼア系の香水として知られるジッキーは、エメの甥ジャック・ゲランの愛称・ジッキーから名づけられたとの説と〔モリス, 中村 (1992) p.172〕、若かりしエメが英国留学中に恋慕した女性の愛称から名づけられたとの説がある〔ダブ, 新間 (2010) p.93〕。発売当時は薬瓶を香水瓶として使用したが、後にガブリエルがデザインしたバカラ社製香水瓶を採用した。同年、ゲランはパリ万国博覧会で香水部門を主催して審査委員長を担当、1900年の同博覧会で香水部門のグランプリを獲得した〔シャザル, 高波 (2010) p.171, p.176〕。また1890年にゲランらが全仏香水製造組合を設立して議長にエメが就任、エメの後を受けて3代目調香師となるジャック・ゲランが「オンブル」 (Ambre) を発表した。エメは1910年に亡くなった。
1912年、ゲランは「ルール・ブルー」 (L'Heure Bleue) を発表した。青の時を意味する名を持つ、パリの黄昏の空を表現したフローラルオリエンタル系の香水であり、香水瓶にバカラ社製「ジャンダルム」を使用した。この時期に新興の香水商としてフランソワ・コティが台頭し始めていた。コティはルネ・ラリックにデザインを依頼し、彼による香水瓶やパッケージは支持を集めた。香水瓶のデザインと芸術性はコティの登場によりマーケティング上の重要性を高めた〔ジョーンズ, 江夏, 山中 (2011) p.33〕。ゲランもこの時期に前後して香水瓶のデザインを変更している。ジッキーの香水瓶にバカラ社製「ギャドリドーブ」を採用し、1904年に発表した香水「シャンゼリゼ」 (Champs-Élysées) には亀甲をモチーフとしたバカラ社製「トルテュ」を採用した〔ダブ, 新間 (2010) p.259〕。1914年、ゲランはシャンゼリゼ通り68番地に店舗を開いた。第一次世界大戦後の1919年、ゲランは『ラ・バタイユ』の登場人物の名を冠したシプレ系の香水「ミツコ」 (Mitsouko) を発表した。ミツコは1908年に合成されたアルデヒドC14による桃の香りを孕み、ルール・ブルーと同じバカラ社製のジャンダルムを香水瓶とした。ミツコは後年、香料に含まれるアレルゲンの問題により処方に変更がなされている〔新間 (2010) p.45〕。1925年、ゲランはパリ万国博覧会でオリエンタル系の香水「シャリマー」 (Shalimar) を発表した。多めのエチルバニリンを用いてベルガモット、ローズ、ジャスミンなどの香りを引き立てたこの香水の名はシャリマール庭園に由来、サンスクリット語の愛の殿堂を意味し、レイモンド・ゲランとバカラ社による香水瓶はムガール帝国のストゥーパをモチーフにしている〔エドワーズ (2005) p.56〕。ゲランはこの万国博覧会で香水部門の審査員長を務めた。シャリマーはオリエンタル系の範となる成功を収め、この後ゲランはアメリカ合衆国に拠点を置いて営業活動を開始した〔モリス, 中村 (1992) p.184〕。
1933年、ゲランは「ヴォル・ドゥ・ニュイ」 (Vol de Nuit) を発表。この香水の夜間飛行を意味する名はジャックの友人であるアントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの同名小説から名づけられ、香水瓶は飛行機のプロペラをイメージして放射状に広がる複数の立体的な線形を前面に施した意匠を採用した〔モリス, 中村 (1992) p.188〕。1937年には「コック・ドール」 (Coque d'Or) を発表、二枚貝を象るブルーガラス製の瓶全面に黄金の塗色を施す装飾を持たせたバカラ社製香水瓶を採用した〔フランス香水委員会 (1994) p.20〕。1939年にはシャンゼリゼ通り68番地の店舗3階に美容学校を開業した。ゲランはシャンゼリゼの店舗デザインにインテリアデザイナーのジャン・ミッシェル・フランク、彫刻家のアルベルト・ジャコメッティ、イラストレーターのクリスチャン・ベラールを起用した。
第二次世界大戦後の1955年、ゲランは4代目調香師となる18歳のジャン=ポール・ゲランが祖父ジャックとの共作を発表、1959年には庭師が発する土と煙草の香りをモチーフに調香した香水「ベチバー」 (Vetiver) を発表した〔ゲラン (2004) p.44〕。ジャックは1963年に亡くなった。1969年、ゲランはフローラル系の香水「シャマード」 (Chamade) を発表した。フランス語で熱き鼓動、あるいは籠城した軍が降伏する際に打ち鳴らす太鼓の音を意味する名を冠した、ヒヤシンス、カルバナム、ブラックカラントなどの香りを調和した香水である。この香水にはレイモンド・ゲランが貝殻をモチーフにデザインした香水瓶を採用した〔エドワーズ (2005) p.149〕。1970年、ゲランは日本に現地法人を設立した。1974年、ジャン=ポールの父ジャン=ジャック・ゲランらが調香師の学校であるISIPCA (Institut supérieur international du parfum, de la cosmétique et de l'aromatique alimentaire, 香水・化粧品・食品国際高等学院) を設立した〔ゲラン (2004) p.29〕。1960年代以降、アメリカにおける香水の需要が拡大し、また新規参入する業者の増加にしたがって広告戦略の重要性が増していた〔エドワーズ (2005) p.251〕。ゲランは1970年代以降に積極的な広告戦略を推進した〔モリス (1992) p.255〕。1984年、ゲランはパウダー「テラコッタ」 (Terracotta) を発売し、パリでヒットを呼んだ。1987年には空から舞い降りる隕石をイメージしたカラーボール状のパウダー「メテオリット」 (Météorites) を発売して好評を得る〔「ざん新な化粧品で消費者の心つかむP・ゲラン氏 洗練の美を追求 (発流行人) 」 日経流通新聞1991年4月30日付 27ページ〕。同年、ベルナール・アルノーの率いるLVMHがゲランの企業買収を開始した。1989年、ゲランはウッディ系の香水「サムサラ」 (Samsara) を発表した。サンスクリット語の輪廻に由来する名を冠し白檀ジャスミンなどの香りを調和した香水である。ジャン=ポールによると、サムサラは香りの決定までに309回の処方を要した〔松井 (1993) p.137〕。従来のゲランは調香師が香りを完成させ、香水瓶を選定して命名し、その後に広告活動を開始する手法を採ってきたが、この香水ではその順序を改め、テーマを東南アジアに決定した後に香りの創作を開始した〔エドワーズ (2005) pp.251-252.〕。この香水には5000万ドルの広告費が投じられた〔「ジャン・ポール・ゲランさん 来日したフランスの名門調香師」 朝日新聞 1990年3月20日朝刊、東京版、22ページ〕。サムサラが成功を収めた後の時期、ゲランの全世界における売上高は日経産業新聞によると20億フラン (1992年) 〔文部科学省 (平成6年) によると1992年のIMF為替レートは1フラン=24円、1993年は1フラン=20円である。〕、純利益は1億6200万フラン (1993年)であった〔。
1994年、買収を進めていたLVMHが発行済み株式の58.8%を取得したことにより、ゲラン社は同グループの傘下に入った〔「仏ルイ・ヴィトン、「ゲラン」ブランド買収 香水事業を拡大へ。」 日経産業新聞 1994年5月10日付、3ページ〕。1996年にLVMHがゲラン社の発行済み株式を100%取得したことにより、創業者一族のゲラン家は同社の経営から離れた〔「「ブランド王国」版図拡大 ヴィトン、セリーヌ買収、ゲランも全株取得。」 日本経済新聞 1996年5月1日夕刊、3ページ〕。ジャン=ポールはその後も社に残り、2002年までゲラン社と雇用関係にあった〔French perfume designer under fire for racial slur CNN (2010-10-16). 2012年3月19日閲覧〕。
2005年、ゲランはシャンゼリゼ通り68番地の店舗を改装し、地上3階の「メゾン・ド・ゲラン」 (La Maison de Guerlain) が完成した〔Stephanie Rosenbloom (2005-07-21). OPEN FOR BUSINESS - New York and Paris New York Times. 2012年3月17日閲覧〕。2008年、ティエリー・ワッサーが5代目調香師に就任した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ゲラン」の詳細全文を読む




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