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ゲオルギイ・フロロフスキー : ミニ英和和英辞書
ゲオルギイ・フロロフスキー[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ゲオルギイ・フロロフスキー ( リダイレクト:ゲオルギイ・フロロフスキイ ) : ウィキペディア日本語版
ゲオルギイ・フロロフスキイ[ちょうおん]
ゲオルギイ・ヴァシリエヴィチ・フロロフスキイ(, , 1893年9月9日ユリウス暦8月28日ロシア帝国 - 1979年8月11日 アメリカ合衆国)は、正教会神学者、歴史学者、エキュメニズムのパイオニア。セルゲイ・ブルガーコフウラジーミル・ロースキイユスティン・ポポヴィチドゥミトル・スタニロアエらとともに、20世紀の正教会において最も重要な神学者の一人に数えられる。
== 生涯 ==
フロロフスキイは正教会司祭の4番目の子としてオデッサに生まれた。学究的な環境に影響を受けつつ成長し、英語ドイツ語フランス語ラテン語ギリシャ語ヘブライ語を在学中に習得。18歳で哲学と歴史を学び始めた。第一段階の卒業後、3年間、オデッサの高校で教師を務め、完全な卒業時にロシア帝国内での全大学での教授資格を得た。1919年に、オデッサ大学で講義を始めたが、1920年にはフロロフスキイの一家はロシアを離れる事を余儀なくされた。若き日のフロロフスキイはこの時、帰国の道が閉ざされた事を知った。マルキシズムは彼が教えていた歴史と哲学を受け入れなかったからである。フロロフスキイはこうして、大量に亡命したロシア人知識人層の一部となった。こうした層の中には、ニコライ・ベルジャーエフセルゲイ・ブルガーコフニコライ・ロースキイ、その子ウラジーミル・ロースキイアレクサンドル・シュメーマンジョン・メイエンドルフがおり、最後の二人はフロロフスキイの後を継いで聖ウラジーミル神学院の学監となった。
1920年代、フロロフスキイは個人的にも職業上も、ニコライ・ベルジャーエフと親しい関係にあった。しかし2人は後年距離を徐々にとるようになった。それは主に、ベルジャーエフがフロロフスキイの神品となった事を理解しなかった事、フロロフスキイがベルジャーエフの「ロシア神学の方法」による宗教哲学に対して批判的態度をとった事による。
1925年に、フロロフスキイはパリ聖セルギイ神学院聖師父学の教授に任じられた。このテーマに、フロロフスキイは自らの天職を見出した。聖師父学は彼にとり、他の多くのエキュメニズムに係る論稿、批評とともに、正教神学および聖書釈義の基準となった。神学に係るアカデミックな学位を持たなかったにも関わらず(後に得た幾つかの名誉学位は除く)、フロロフスキイは残りの生涯を神学教育機関での教授に費やした。
1932年、フロロフスキイは正教会の司祭叙聖された。1930年代を通じて、欧州の図書館を巡って膨大な調査を行い、彼の代表作でありかつ聖師父学の領域で最も重要な著作でもある、『ロシア神学の途』(Ways of Russian Theology)を著した。この重厚な著作において、彼はスコラ神学敬虔主義観念論がロシア神学に及ぼした西方教会からの影響に疑問を呈し、ロシア神学を聖師父達の著作の光の中で再評価するよう訴えた。この著作は熱狂的支持と譴責の両方を浴び、亡命ロシア人の間では中立的評価というものは存在しなかった。最も著名な批判者は、宗教哲学者であり社会批評家であったニコライ・ベルジャーエフであった。
1949年、フロロフスキイはニューヨークに移り、1950年聖ウラジーミル神学院の学監となった。フロロフスキイによる神学教育カリキュラムの拡充は、1953年にニューヨーク大学区理事会(The Board of Regents,The University of the State of New York)〔訳語出典:アメリカにおける大学の質の保証のシステム【その1】-州政府による設置認可- 中央教育審議会大学分科会将来構想部会(第2回) )〕から神学院に対して教育法人としての認可(Charter)を受ける結果に繋がった。1955年に学監を解任された。フロロフスキイの最もよく知られる教え子・後継者には、府主教イオアンニス・ジジウラス()が居る。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Georges Florovsky 」があります。




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