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グスターボ・アドルフォ・ベッケル : ミニ英和和英辞書
グスターボ・アドルフォ・ベッケル[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

グスターボ・アドルフォ・ベッケル ( リダイレクト:グスタボ・アドルフォ・ベッケル ) : ウィキペディア日本語版
グスタボ・アドルフォ・ベッケル[ちょうおん]

グスタボ・アドルフォ・ベッケル(, 1836年2月17日 - 1870年12月22日)は、スペイン詩人散文作家。抒情詩に優れ、スペインの国民的詩人とされる。本名はグスタボ・アドルフォ・クラウディオ・ドミンゲス・バスティーダ(Gustavo Adolfo Claudio Domínguez Bastida)〔集英社『世界文学大事典』〕。グスターボ・アドルフォ・ベッケルと表記される場合もある〔本稿の記事名は各種文学事典及び人名事典に依った。〕。
健康と家庭に恵まれず、不遇の生涯を送った末に夭折。死後に唯一の詩集『抒情詩集』を遺した。スペイン近代詩の源流として高く評価され、後世の詩人に大きな影響を与えた。
==生涯==
セビリアに生まれる。父は著名な風俗画家であったホセ・ドミンゲス・ベッケル。8人兄弟の5番目であった〔山田訳『スペイン伝説集』〕。5歳で父と、10歳で母と死別〔。伯母に引き取られる。孤児のために設置された海員学校に入学するがすぐに廃校となったため、バルトロメ・エステバン・ムリーリョのアトリエに入学、その後は親戚のアトリエで修行する。当初は画家を目指したが、一方で読書に耽るようになり、17歳でマドリードの雑誌に自作の詩が掲載されるようになるなどして、やがて文学を志すようになる。この時期に最初の恋人フリア・カブレラとの出会いと別れを経験。またナルシソ・カンピーリョ、フリオ・ノンベーラなどの友人を得る〔。
1854年、18歳にしてマドリードへ出る。下級公務員、書記、記者〔『新潮世界文学辞典』〕などの職を転々としながら執筆活動を送るが、世に認められず、生活は苦しかった。1857年、『スペイン教会堂史』第1巻を発表するが以後中断。この頃、王立劇場の指揮者ホアキン・アスピンの娘フリア(前述のフリア・カブレラとは別人)に恋をするが実らなかった〔。1860年、結核の療養中に主治医フランシスコ・エステバンの娘カスタと出会う。彼女へのメッセージ〔カスタへのメッセージと考えられているが、アスピンの娘フリアへのメッセージの可能性もある。〕として『ある女性への文学的書簡』を「エル・コンテンポラネオ」(後述)に計4通発表した。翌年5月にカスタと結婚するも、性格の不一致などにより結婚生活は円満ではなかった〔。
この頃から自由主義穏健派の新聞「エル・コンテンポラネオ」(El Contemporáneo, 現代)〔訳によって雑誌「現代」ともされる。〕の編集を手掛けるようになり、1861年から1863年にかけて自作の詩を同紙に掲載するようになる。この詩は死後に『抒情詩集』『伝説集』に収録される。また療養先のベルエラ修道院で書かれた詩的書簡は1864年に同紙に掲載され、『わが僧坊より』〔訳によって『修道院の一室から』(''Desde mi celda'')ともされる。〕としてまとめられた。同紙に関わっていたことで、自由主義穏健派の重鎮ゴンサーレス・ブラボの知遇を得る。ブラボはベッケルのよき理解者となり、ブラボが内務大臣に就任すると、1865年から1868年まで小説検閲官の職を得て安定した生活を送り、創作活動に専念する。この時期に詩集の草稿をまとめ、出版を依頼してブラボの手許に預けていた。しかし1868年のスペイン9月革命によりブラボ邸は襲撃に遭い、出版を待つのみであった草稿は失われた。その後トレドへ1年間赴き、同地で霊感を得て記憶を頼りに草稿を再生した〔。
1870年の1月に文芸雑誌「マドリッド画報」の編集長に就任する。マドリードやトレドの取材記などを執筆するも、同年の年末に肺炎肺結核ともされる。〕のため死去〔。34歳だった。
死後、前述の友人達によって遺稿が整理され、死の翌年の1871年に全2巻の『ベッケル作品集』(''Obras'')として刊行される。この内容は後に『抒情詩集』と『伝説集』に編纂された〔。
1965年から1970年まで発行された100ペセタ紙幣に肖像が使用されていた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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