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クレメンス・ブレンターノ : ミニ英和和英辞書
クレメンス・ブレンターノ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

クレメンス・ブレンターノ : ウィキペディア日本語版
クレメンス・ブレンターノ[ちょうおん]

クレメンス・ブレンターノ(Clemens Maria Brentano, 1778年9月9日 - 1842年7月28日)は、ドイツ文学者小説家詩人。ドイツロマン主義の最盛期の代表として著名な人物で、また同時代の文学者で義弟にあたるアヒム・フォン・アルニムとの親交も深かった。
== 生涯 ==
上部イタリア地方出身の商人ペーター・ブレンターノと、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの若き頃の崇拝者でもあったマクシミリアーネ・フォン・ラ・ロッシュの子としてコブレンツに生誕。姉妹には、アルニムと結婚し、自身も作家であるベッティーナや、法学者フリードリヒ・カール・フォン・サヴィニーと結婚したクニグンデがいる。
カトリックの洗礼を受け、フランクフルト・アム・マインやコブレンツで育つ。
商業教育の修得に失敗し、1797年にハレ大学で山岳研究、1798年よりイェーナ大学医学を学びつつ、文学に傾倒するようになる。イェナでは、ヴァイマル古典主義の代表者たち(クリストフ・マルティン・ヴィーラントヨハン・ゴットフリート・ヘルダー、ゲーテら)に学び、若きロマン主義者たち(フリードリヒ・シュレーゲルヨハン・ゴットリープ・フィヒテルートヴィヒ・ティークら)とも出会った。
1801年よりゲッティンゲン大学哲学を学び、アルニムと親交を深め、ライン地方への旅行を計画。
作家ゾフィー・メローとの結婚後、1804年にハイデルベルクへ発ち、アルニムと共に、『隠者新聞』(') と、民謡集『少年の魔法の角笛』(''Des Knaben Wunderhorn'') を出版。1806年には妻ゾフィーが3度目の流産で死去するが、その数か月後に再婚した。ただし旅行中のため、結婚生活は実質1814年からであった。
長旅の後はたびたびベルリンに滞在するようになり、1810年からはハインリッヒ・フォン・クライストの『ベルリン夕刊紙』(') の仕事を手伝う。また、1803年に出会っていたグリム兄弟に、彼らが収集していた童話集の出版を薦めていたが、預かった草稿をブレンターノが紛失したため『グリム童話』の出版を遅らせたことがある。(20世紀に入ってこの草稿はエーレンベルク修道院で発見された。)1811年にはキリスト教的ドイツ談話会 (''Christlich-deutsche Tischgesellschaft'') の発起人の列に名を連ねるなど、ベルリンの文学者のグループにも溶け込んでいた。
次第に重い抑うつに苦しむようになり、1817年以降は神秘主義にのめり込む。懺悔し、世俗の詩人であることも捨て去った彼の著作には、キリスト教的なテーマが取り上げられることが多くなり、その中にはデュルメンアンナ・カタリナ・エンメリックのような聖痕を持つ修道女の幻視の描写も含まれる。
1829年からフランクフルトに住み、1833年にミュンヘンに移住。1842年アシャッフェンブルクにて死去。63歳であった。
ハイデルベルク市は、彼を記念して1993年にクレメンス・ブレンターノ賞を設けている。) と、民謡集『少年の魔法の角笛』(''Des Knaben Wunderhorn'') を出版。1806年には妻ゾフィーが3度目の流産で死去するが、その数か月後に再婚した。ただし旅行中のため、結婚生活は実質1814年からであった。
長旅の後はたびたびベルリンに滞在するようになり、1810年からはハインリッヒ・フォン・クライストの『ベルリン夕刊紙』(') の仕事を手伝う。また、1803年に出会っていたグリム兄弟に、彼らが収集していた童話集の出版を薦めていたが、預かった草稿をブレンターノが紛失したため『グリム童話』の出版を遅らせたことがある。(20世紀に入ってこの草稿はエーレンベルク修道院で発見された。)1811年にはキリスト教的ドイツ談話会 (''Christlich-deutsche Tischgesellschaft'') の発起人の列に名を連ねるなど、ベルリンの文学者のグループにも溶け込んでいた。
次第に重い抑うつに苦しむようになり、1817年以降は神秘主義にのめり込む。懺悔し、世俗の詩人であることも捨て去った彼の著作には、キリスト教的なテーマが取り上げられることが多くなり、その中にはデュルメンアンナ・カタリナ・エンメリックのような聖痕を持つ修道女の幻視の描写も含まれる。
1829年からフランクフルトに住み、1833年にミュンヘンに移住。1842年アシャッフェンブルクにて死去。63歳であった。
ハイデルベルク市は、彼を記念して1993年にクレメンス・ブレンターノ賞を設けている。) の仕事を手伝う。また、1803年に出会っていたグリム兄弟に、彼らが収集していた童話集の出版を薦めていたが、預かった草稿をブレンターノが紛失したため『グリム童話』の出版を遅らせたことがある。(20世紀に入ってこの草稿はエーレンベルク修道院で発見された。)1811年にはキリスト教的ドイツ談話会 (''Christlich-deutsche Tischgesellschaft'') の発起人の列に名を連ねるなど、ベルリンの文学者のグループにも溶け込んでいた。
次第に重い抑うつに苦しむようになり、1817年以降は神秘主義にのめり込む。懺悔し、世俗の詩人であることも捨て去った彼の著作には、キリスト教的なテーマが取り上げられることが多くなり、その中にはデュルメンアンナ・カタリナ・エンメリックのような聖痕を持つ修道女の幻視の描写も含まれる。
1829年からフランクフルトに住み、1833年にミュンヘンに移住。1842年アシャッフェンブルクにて死去。63歳であった。
ハイデルベルク市は、彼を記念して1993年にクレメンス・ブレンターノ賞を設けている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「クレメンス・ブレンターノ」の詳細全文を読む




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