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クリコヴォの戦い : ミニ英和和英辞書
クリコヴォの戦い[くりこう゛ぉのたたかい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 
戦い : [たたかい]
 【名詞】 1. battle 2. fight 3. struggle 4. conflict 

クリコヴォの戦い : ウィキペディア日本語版
クリコヴォの戦い[くりこう゛ぉのたたかい]

クリコヴォの戦いロシア語:または)は、1380年モスクワ大公ドミートリー1世(ドミートリー・ドンスコイ)の率いるルーシ諸侯連合軍が、ジョチ・ウルスの事実上の支配者ママイの軍とそれに同盟したリトアニア大公国・ルーシ諸侯などの連合軍を破った戦い〔ドミートリー・ドンスコイはモスクワ公ないしモスクワ大公としてはドミートリー1世、ウラジーミル大公としてはドミートリー4世である。〕。
なお、アレクサンドル・ソルジェニーツィンの小説『胴巻のザハール』では地名が「クリーコヴォ」なのか「クリコーヴォ」なのかという問題が出されているが、一般には「クリコーヴォ」が採られている。''または)は、1380年モスクワ大公ドミートリー1世(ドミートリー・ドンスコイ)の率いるルーシ諸侯連合軍が、ジョチ・ウルスの事実上の支配者ママイの軍とそれに同盟したリトアニア大公国・ルーシ諸侯などの連合軍を破った戦い〔ドミートリー・ドンスコイはモスクワ公ないしモスクワ大公としてはドミートリー1世、ウラジーミル大公としてはドミートリー4世である。〕。
なお、アレクサンドル・ソルジェニーツィンの小説『胴巻のザハール』では地名が「クリーコヴォ」なのか「クリコーヴォ」なのかという問題が出されているが、一般には「クリコーヴォ」が採られている。'')は、1380年モスクワ大公ドミートリー1世(ドミートリー・ドンスコイ)の率いるルーシ諸侯連合軍が、ジョチ・ウルスの事実上の支配者ママイの軍とそれに同盟したリトアニア大公国・ルーシ諸侯などの連合軍を破った戦い〔ドミートリー・ドンスコイはモスクワ公ないしモスクワ大公としてはドミートリー1世、ウラジーミル大公としてはドミートリー4世である。〕。
なお、アレクサンドル・ソルジェニーツィンの小説『胴巻のザハール』では地名が「クリーコヴォ」なのか「クリコーヴォ」なのかという問題が出されているが、一般には「クリコーヴォ」が採られている。
== 概要 ==

モスクワ大公国のドミートリー大公は、増税を要求するジョチ・ウルスに対し公然と反旗を翻し、1378年にリャザン公国北部のでタタールの軍を破ったが〔ヴォジャ河畔の戦いはジョチ・ウルス軍・モンゴル軍に対して、モンゴルのルーシ侵攻バトゥの大西征)以来はじめてロシア側が勝利した戦いであった。加藤一郎「ロシア古代中世史」 〕、1380年にはジョチ・ウルスの事実上の支配者ママイ自身の率いる大軍と再び戦わなければならなくなった〔チャノン&ハドソン(1999)p.26〕〔栗生沢(2002)pp.92-94〕。
ヴォジャ河畔での敗戦を知ったママイは、モスクワ大公国を討つべく、より綿密な軍事的・外交的準備を進めた〔加藤一郎「ロシア古代中世史」 〕。自らの軍をイタリアジェノヴァ共和国からの傭兵、およびヤス人の兵で補強し、リトアニア大公国とリャザン公国に対しては、両国と同盟関係を結んだのである〔。ロシアにおける覇権を相互に争い、モスクワにとってライヴァル中のライヴァルであったリトアニア大公国のヨガイラは一も二もなくこの申し出に乗り、ママイと同盟した。
しかし、リャザン公国の立場は微妙なものであった〔〔リトアニア大公ヨガイラはクリコヴォ戦後の1386年にポーランド王となり、ヤゲロー朝を創始してヴワディスワフ2世を名乗った。〕。1373年1377年の2度にわたり、タタール軍の侵入を受けて荒廃していたリャザン公国は、ママイ軍とモスクワ軍双方の進路にあたり、戦場になることが予想されるため、どちらに味方しても難しい立場に置かれることは明白であったからである〔。かとといっても、中立を貫くのも不可能な状況にあった。苦しい立場にあるリャザン公オレーク・イヴァノヴィチは、結局、モスクワ打倒が成った際には、ママイの従臣として、ルーシの地をヤガイロと二分して統治するというタタール側の条件にひかれて、基本的にママイ軍に加担するものの、モスクワのドミートリーに対しても友好的な態度を保持しようと努めた〔。
1380年9月8日、モスクワのドミートリー大公が率いるルーシ諸侯連合軍は、ママイとそれに同盟したリトアニア大公国・ルーシ諸侯の連合軍とドン川近くのクリコヴォ平原で戦闘状態に入った〔。ドミートリー率いるルーシ軍はドン川を渡って背水の陣をしき、双方が数万ないし十数万ともいわれる大軍がぶつかり合う激しい会戦となった。戦闘は終日つづき、モスクワ側が最後に温存していた伏兵部隊を投入し、かろうじて勝利した〔。これがクリコヴォの戦いである。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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