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ギョベクリ・テペ : ウィキペディア日本語版
ギョベクリ・テペ

ギョベクリ・テペ(トルコ語: Göbekli Tepe) は、アナトリア南東部、シャンルウルファ(前ウルファ、エデッサ)の郊外(北東12km)の丘の上に在る新石器時代の遺跡遺丘の高さは15メートル、直径はおよそ300メートルに及ぶ〔Klaus Schmidt (2009): ''Göbekli Tepe - Eine Beschreibung der wichtigsten Befunde erstellt nach den Arbeiten der Grabungsteams der Jahre 1995-2007''. In: ''Erste Tempel - Frühe Siedlungen. 12000 Jahre Kunst und Kultur.'' Oldenburg, p. 188.〕。地名は「太鼓腹の丘」の意。標高はおよそ760メートル。ドイツ考古学チームにより発掘調査が行われた。発掘は1996年から始まり、チームの指揮を執ったクラウス・シュミット(Klaus Schmidt)が他界する2014年まで続いた。
ギョベクリ・テペの遺丘に残された構造物は紀元前1万年から紀元前8000年の期間に建てられた。祭祀に用いられたと考えられるこれらの構造物には2段階の発達が見られる。第一段階()では巨大な丁字型の石柱がいくつも円を描くように並べられている。物理探査(リモートセンシング)により石柱の総数は200本以上、それらの描き出す円が20確認されている。各石柱は6メートル以上、重さは20トン。それらが基盤岩に穿たれた穴にはめ込まれている。第二段階()では石柱は小さくなり、磨かれた石灰の床を持つ長方形の部屋に立てられた。遺丘の隣に位置し発掘調査が待たれている構造物は1万4000年から1万5000年前のものであることがトポログラフィック・スキャンによって明らかにされた。これはともすれば更新世を1000年遡行することになる〔Gobekli Tepe - National Geographic @23:20 〕。先土器新石器B期が終わると遺跡は打ち捨てられた。比較的新しい構造物にはギリシャ・ローマ時代のも見られる。
この構造物が何に使われていたのかははっきりしていない。発掘に携わったクラウス・シュミットは初期新石器時代の神殿だと信じていた。
== 遺跡の発見 ==

1963年にイスタンブル大学シカゴ大学が共同で行った一般調査の中で初めてこの遺跡について記録された。アメリカの考古学者ピーター・ベネディクトは遺丘に新石器時代の痕跡を認めたが〔Peter Benedict (1980): ''Survey Work in Southeastern Anatolia''. In: Halet Çambel; Robert J. Braidwood (ed.): ''Prehistoric Research in Southeastern Anatolia I''. Edebiyat Fakültesi Basimevi, Istanbul, pp. 151–191.〕、ギョベクリ・テペを新石器時代の地層が東ローマ帝国時代、イスラム時代に墓地として覆われたものだと仮定した。調査の記録のなかでは無数の燧石(フリント)について触れられていた。そして巨大な石灰岩の石板、すなわち丁字型の石柱の地上に現れている部分は墓標であると考えられた。遺丘は長い間農耕に晒されてきた。幾世代にもわたる地元住民がしばしば邪魔な石をどかしては積み上げてきた。その過程のなかで考古学上重要な遺構も破壊された可能性がある。
1994年、先んじてネヴァリ・コリでの発掘に携わっていたドイツ考古学研究所German Archaeological Institute)のクラウス・シュミットは次なる発掘場所を探していた。この地域の考古学の文献を見返しているとシカゴ調査団の残したギョベクリ・テペに関する簡単な説明が目に留まり、彼はもう一度調査をしてみようと決心した。彼のネヴァリ・コリでの経験から、記述に残されていた燧石や石板が丁字型の石柱の一部であろうと見当をつけたものだった。
翌年、彼はシャンルウルファ博物館(Şanlıurfa Museum)と共同で発掘に着手した。すぐに巨大な丁字型の石柱が姿を見せる。そのうちのいくつかは明らかに粉砕しようとしたような痕跡が見られた。おそらく石柱を変哲の無い普通の岩と考えた農夫によるものである。近くの新石器時代の遺跡(Gürcütepe)の発掘調査の開始は2000年を待つことになった〔Klaus Schmidt (2006): ''Sie bauten die ersten Temel. Das rätselhafte Heiligtum der Steinzeitjäger. Die archäologische Entdeckung am Göbekli Tepe.'' Munich, pp. 83-92.〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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