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ギュンター・プリーン : ミニ英和和英辞書
ギュンター・プリーン[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ギュンター・プリーン : ウィキペディア日本語版
ギュンター・プリーン[ちょうおん]

ギュンター・プリーン(、1908年1月16日1941年5月7日)はドイツ海軍(Kriegsmarine)の軍人。第二次世界大戦初期における著名なUボートエースの一人で、最初に騎士鉄十字章を授与されたUボート艦長である。プリーンの指揮の下、潜水艦U-47は30隻以上の連合国艦船、合計約20万トンを撃沈した。しかし、彼の飛び抜けて、かつもっとも有名な戦績といえばイギリス海軍本国艦隊(The Home Fleet)の本拠地スカパ・フローに係留されていた戦艦ロイヤル・オークを撃沈したことである。
== 海軍入隊まで ==
プリーンはプロイセンのザクセン州オスターフェルトに生まれ、ライプツィヒで育った。1923年夏、ドイツ商船隊に加わり、ハンブルクフィンケンヴァルダー(Finkenwarder)にある船員養成所で3ヶ月教育を受けた後、3本マストの全装帆船、「ハンブルク号」のキャビンボーイ(給仕係)となった。
彼の最初の航海は、アゾレス諸島ペンサコーラホバートタスマニア)およびファルマスと渡るものだった。1925年10月、コークへの航海中嵐に遭い、船はダブリン付近で座礁、放棄され、のちに沈没したと発表された。 プリーンとクルー達はブレーマーハーフェンへ送られ、そこからハンブルクに着いたとき、プリーンは船員の書類を受け取り、彼が船上で利用したもののコストが彼の給料の6ヶ月分を上回るものだったことが分かった。
彼が一人前の船乗りを目指していたことは、彼がすぐに別の全装帆船「オルデンブルク号」と契約したことに表れている(ヨースト・メッツラー:de:Jost Metzler)著『The Laughing Cow』)。ヨースト・メッツラー(後のU-69艦長)はオルデンブルク号(現在のSuomen Joutsen(フィンランドの白鳥)号)に一般船員として乗船したとき、プリーンの片腕となった。彼は著書『The Laughing Cow: The Story of U 69』の冒頭で、プリーンと彼との関係は当初“非常に緊張した”もので、若い船員であるプリーンが“時々非常に厳しく、不公平だった”と語っている。後に彼らは親友となり、一連の南アメリカの港に向かうことになる。彼は航海士の免状と無線通信士の免許を得て「サン・フランシスコ号」の四等高級船員となりハンブルクを出たが、船は霧の中、ホーエヴェーク(Hoheweg)灯台付近で他船と衝突した。見張り役だったプリーンは取調べのためにブレーマーハーフェンにある海事裁判所海員審判所に招喚されると、原因は悪天候のせいだと主張した。
1932年1月、プリーンは船長試験に合格したが、折からの世界恐慌のためドイツの船舶輸送業界も衰退しており、仕事を見つけることができなかった。彼はライプツィヒに帰ったが、援助会でも仕事を見つけられなかった。1932年3月、彼は国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)に入党した(Gordon Williamson著『Wolf Pack: The Story of the U-Boat in World War II』によれば、海軍はナチ党あるいはナチス親衛隊メンバーの入隊を認めず、入隊する場合は離党することを強いられた)。8月、Oslnitzにて、フォークトベルク(Vogtsberg)の国家労働奉仕団に入団した。
1933年1月、彼は帆船ニオベNiobe)が失われた後、商船要員の早急な増強が求められている中に引き込まれる形でドイツ海軍に入隊した。プリーンは将校になるという強い願望を持ちながら一般水兵として入隊した。彼は訓練に耐え、軽巡洋艦ケーニヒスベルクに配属となった。後にキールでUボートの訓練を受け、最終的にブレーメンのデシマーク社造船所にあったU-26の第一当直士官として配属された。
プリーンは順調に昇進し、1933年海軍士官候補生、1935年上級士官候補生、同じく1935年少尉、1937年には中尉になった。1939年2月1日、彼は新型のUボート(VIIB型)U-47の艦長に任命され、大尉の辞令を受けた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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