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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
キース・バーロウ・ヘルナンデス(Keith Barlow Hernandez , 1953年10月20日 - )は、アメリカ合衆国・カリフォルニア州サンフランシスコ出身の元プロ野球選手(一塁手)。左投左打。 == 人物・来歴 == 1971年のメジャードラフト会議でセントルイス・カージナルスから42巡目(全米776位)と、後の実績を思えば非常に低い評価で指名され、入団。 1974年8月30日にメジャーデビューを果たし、3年目の1976年には持ち前の巧打と好守備で一塁のレギュラーを獲得。 1979年には161試合に出場して打率.344で首位打者を獲得。11本塁打、105打点の成績を残し、この年のナ・リーグMVPに選出された(ピッツバーグ・パイレーツのウィリー・スタージェルと同点で、2人受賞)。 1982年にはチームがワールドシリーズに出場し、ミルウォーキー・ブルワーズ(現在はナ・リーグ所属だが、1997年まではア・リーグ所属だった)と戦う。第6戦で本塁打を放ち、チームをワールドシリーズ制覇に導いた。 翌1983年6月15日に、2選手との交換でニューヨーク・メッツにトレードされた。カージナルスの監督ホワイティ・ハーゾグが、年齢的な衰えを懸念して放出したものであったが、メッツにとっては成功したトレードの一つとなった。 1985年にピッツバーグ薬物裁判に関連して、パイレーツの当時の本拠地スリー・リバース・スタジアムでの麻薬(コカイン)の密買・使用に関与した発覚し、「100時間の奉仕活動と麻薬の抜き打ち検査を受ける」ことを条件に出場停止処分を逃れるが、チーム及びファンから熱烈な支持を受けてその後も活躍。 1986年には打率.310、13本塁打、83打点の活躍でチームのワールドシリーズ制覇に貢献した。 1987年からはチームの初代キャプテンに任命され、この年も打率.290、18本塁打89打点の活躍を見せるが、1988年以後は衰えが目立ち、1989年限りでメッツを去り、クリーブランド・インディアンスに移籍。 1990年も43試合の出場にとどまり、この年限りで現役を引退した。 守備力にも優れ、ゴールドグラブ賞を1978年から1988年にかけて11年連続で受賞している。 ヘルナンデスの一塁守備が優れているため、1980年代半ばのシカゴ・カブスの監督ジム・フライ(1984年にカブスを地区優勝に導く)は、「ランナーが二塁でフォースアウトになって、ピッチャーがランナーになるよりはまし」として、メッツとの試合では、投手にあまり送りバントをさせなかったという。 選球眼に優れ、通算でも三振 (1,012) よりも四球 (1,070) の方が多い。1977年から1986年まで10年連続して三振よりも四球の方が多かった。 1980年から1988年の間にメジャーで公式記録だった勝利打点もその間に129記録しており、これはメジャー最多。1985年の24はシーズン記録である。 1987年に打撃不振に陥った時に、テレビで見ていた父からアドバイスを貰って立ち直った。その父は、第二次世界大戦で海軍に従軍し、野球殿堂入りの強打者スタン・ミュージアルと海軍の野球チームのチームメイトであった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「キース・ヘルナンデス」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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