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キリスト磔刑と最後の審判 : ミニ英和和英辞書
キリスト磔刑と最後の審判[きりすとたっけいとさいごのしんぱん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

磔刑 : [はりつけ]
 (n) crucifixion
: [けい]
  1. (n,n-suf,vs) penalty 2. sentence 3. punishment 
: [さい]
  1. (n,pref) the most 2. the extreme
最後 : [さいご]
 【名詞】 1. last 2. end 3. conclusion 
: [のち]
  1. (n,adj-no) afterwards 2. since then 3. in the future 
審判 : [しんぱん]
  1. (n,vs) refereeing 2. trial 3. judgement 4. judgment 5. umpire 6. referee 
: [ばん]
 (n,n-suf) size (of paper or books)

キリスト磔刑と最後の審判 : ウィキペディア日本語版
キリスト磔刑と最後の審判[きりすとたっけいとさいごのしんぱん]

キリスト磔刑と最後の審判』(キリストたっけいとさいごのしんぱん())は、初期フランドル派の画家ヤン・ファン・エイクが1430年から1440年ごろに描いたとされる絵画。二枚のパネルから構成されるディプティクで、最終的な仕上げの多くが、後世の画家かファン・エイクの工房によってなされたと考えられている。この作品は初期フランドル派の画家たちが描いた板絵のなかでも傑作の一つとされており、稀に見る構成の複雑さ、詳細に表現された寓意、そして高い絵画技法によって高く評価されている。装飾写本の挿絵であるミニアチュールの制作手法で描かれており、パネルの大きさはそれぞれ 56.5 cm × 19.7 cm という小作品で、個人的な祈祷に使用する聖像として依頼、制作されたものだと考えられている。
左翼に描かれているのはキリスト磔刑である。前景に嘆き悲しむキリストの弟子と親族たち、中景は兵士と処刑の見物人が群れを成し、そして画面上部には磔刑に処せられた三名の身体が描かれている。背景には青い空と彼方のエルサレムの町並みが見える。右翼に描かれているのは最後の審判である。画面下部に地獄の光景、中部には大天使ミカエルと死から甦って審判を待つ人々、そして上部には聖人、預言者、聖職者、聖母マリアらを従えた玉座のキリスト (:en:Christ in Majesty) が描かれている。ほかに画面上には、ギリシア語、ラテン語、ヘブライ語で書かれた銘も記されている〔"The Crucifixion; The Last Judgment ". Metropolitan Museum of Art. Retrieved 20 February 2012.〕。完成当時のままの金で箔押しされたフレームには、『旧約聖書』の『イザヤ書』、『申命記』、『黙示録』からの文章が記されている。また、両パネルの裏面には、1867年にこのパネルはカンバスに移植されたという記述がロシア語で記されている。
『キリスト磔刑と最後の審判』に関する現存する記録は1841年が最古のもので、当時の研究者たちはこの作品のことを中央パネルが失われた三連祭壇画の両翼だと考えていた〔。その後、1933年にニューヨークメトロポリタン美術館が『キリスト磔刑と最後の審判』を購入している。当時はヤン・ファン・エイクの兄フーベルト・ファン・エイクの作品だとみなされていた〔Ridderbos et al., p.216〕。これは、複数の画家の手による挿絵が収載されている装飾写本『トリノ=ミラノ時祷書』のうち、当時はフーベルトが描いたとされていた挿絵が、この作品によく似ていたことによる〔。現在では、その絵画技法と描かれている人物像がまとう衣服の表現から、美術史家のほとんどがヤン・ファン・エイクの後期、おそらくは1430年代から死去する1441年の間に描かれた作品だと見なしている。ただし、制作年については異説もあり、まだヤン・ファン・エイクが若く未熟な1420年代初めごろの作品であると主張する美術史家もいる〔Borchert, p.86〕〔Borchert, p.89〕。
== 構成と技法 ==
ロベルト・カンピンと次世代のロヒール・ファン・デル・ウェイデンと並んで、ファン・エイクは15世紀半ばの北方ヨーロッパ絵画作品に、自然主義と写実主義をもたらした革新的な画家だった〔Ridderbos et al., p.378〕。ファン・エイクは油彩を使いこなした詳細描写の技法に習熟した最初の画家であり、『キリスト磔刑と最後の審判』の人物像にも油彩による高い写実性と複雑な感情表現が描き出されている〔Panofsky, p.163〕。とくに「キリスト磔刑」の画面上部に顕著な、それまでに類を見ない画肌の輝くような光沢と深い遠近表現をなしとげた画家だった〔Viladesau, p.70〕。
1420年代から1430年代ごろの油彩技法と板絵はまだ初期の段階だった。「最後の審判」を描き出す場合には、支持体である細長い板に適した単純な垂直構成が採用され、画面上部から天界、俗界、地獄が階層化されて描かれていた。一方「キリスト磔刑」を描く作品では水平構成が採用されることが多かった。これに対し『キリスト磔刑と最後の審判』の両翼はどちらも縦に細長い小さな板に描かれている。この小さなスペースに多くのモチーフを詳細に描き出すために、ファン・エイクは革新的ともいえる様々な技法を編み出した。左翼の「キリスト磔刑」では垂直構成で描くために多くのモチーフを見直し、右翼の「最後の晩餐」では多くの場面を一つに凝縮して物語性を高めている〔Smith, p.144〕〔。垂直構成の「キリスト磔刑」では、十字架が中空高くに、それまで例のない密集した群衆が中景に、嘆き悲しむ人々が前景に描かれて、壮大な情景を創り上げている。すべてのモチーフが画面下部から画面上部へと向かう上り坂の構図で描かれており、これは中世のタペストリの構図と同じものである。美術史家オットー・ペヒト (:en:Otto Pächt) は、「あらゆる世界が一つの絵画作品に描きだされた世界図絵である」としている〔。
ファン・エイクが左翼の「キリスト磔刑」で用いている手法は、聖書のエピソードを物語風に描きだすための14世紀初頭に見られた伝統的な技法である〔Labuda, p.14〕。美術史家ジェフリー・チップス・スミス (:en:Jeffrey Chipps Smith) は、聖書で順を追って発生している出来事がこの作品では「順番ではなく同時に」描かれていると指摘している〔。ファン・エイクは聖書に記されている、異なる時間に起こった複数のエピソードを一つの場面に凝縮して描きだした。鑑賞者はこの作品を下から上へと見上げていくことによって、実際の時間順通りにエピソードを追いかけることができる〔。鑑賞者の視線の動きによって時間の経過を意識させるという手法は、ファン・エイクによる複雑に計算された空間描写と遠近法を駆使した奥行き表現によって成し遂げられている〔。ファン・エイクは左翼の「キリスト磔刑」で、作品の主題たるキリストとの関係性の深さに応じてモチーフの大きさを描き分けている。とくに人物描写に顕著に見られる手法で、前景のキリストの死を嘆き悲しむ人々に比べると、中景に集う兵士や見物人たちは厳密に遠近法を適用した場合のサイズよりもやや大きめに描かれている。右翼の「最後の審判」では、亡者たちが画面下部の中景に描かれているのに対し、聖人や天使たちは画面上部の前景に描かれている〔。ペヒトはこの「最後の審判」に描かれている場面が「秩序だった一つの空間に同化して」描写されており、大天使が作品空間における天界と地獄とを隔てる役割を果たしているとしている〔。
『キリスト磔刑と最後の審判』が二枚のパネルから構成されるディプティクなのか、あるいは中央パネルが失われた三連祭壇画の両翼なのかは、美術史家によって意見が分かれている〔。三連祭壇画の両翼であるという説の美術史家の間でも、失われた中央パネルに何が描かれていたのかに関していくつかの見解がある。「東方三博士の礼拝」が描かれていたという説〔、「キリスト生誕」が描かれていたという説などである〔。ただし現在主流となっている学説は、失われたとされる中央パネルはそもそもオリジナルの『キリスト磔刑と最後の審判』には存在していなかったというものである。「東方三博士の礼拝」も「キリスト生誕」も、「キリスト磔刑」と「最後の審判」との組み合わせで描かれることは、1420年代から1430年代に描かれた祭壇画としてはまずありえない。その他唱えられている説として、もともと二枚のパネルで構成されていたディプティクに後世になってから中央パネルが付け加えられたというものや、アルベルト・シャトレの主張のようにもともと存在していた中央パネルが盗まれて散逸したといった説がある〔〔Châtelet, p.74〕。美術史家エルヴィン・パノフスキーは、『キリスト磔刑と最後の審判』がディプティクとして制作されたと考えている。その理由としてパノフスキーは、『キリスト磔刑と最後の審判』が三連祭壇画の両翼だと見なすには「壮麗な表現」に過ぎることを挙げている〔Panofsky, p.454〕。他にも、三連祭壇画であれば公共の目に触れさせる目的で、もっと大きなサイズで制作されており、金で箔押しされたフレームに相応な銘が刻まれているはずだという見解もある。さらにこの『キリスト磔刑と最後の審判』のような豪華な素材と表現がなされているのは、三連祭壇画の場合であれば通常は中央パネルのみだとする。これに対して当時のディプティクは個人の祈祷用の小さなもので、フレームに箔押しはされていなかった〔。いずれにせよ『キリスト磔刑と最後の審判』が三連祭壇画の両翼だったのか、あるいはディプティクだったのかについては確たる証拠は存在していない。しかしながら、技術的な解析から見ると『キリスト磔刑と最後の審判』はディプティクだったという可能性が高い〔Ridderbos et al., p.78〕。これに対しペヒトは、三連祭壇画ではないと判断するには、依然として検証が不足していると主張している〔Pächt, pp.190 - 191〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「キリスト磔刑と最後の審判」の詳細全文を読む




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