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キスユラブルグント王国 : ミニ英和和英辞書
キスユラブルグント王国[きすゆらぶるぐんとおうこく]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ラブ : [らぶ]
 【名詞】 1. (abbr) lab 2. laboratory 3. love 4. (n) (abbr) lab/laboratory/love
ブル : [ぶる]
 【名詞】 1. bull 2. (n) bull
: [おう]
  1. (n,n-suf) (1) king 2. ruler 3. sovereign 4. monarch 5. (2) king (for senior player) (shogi) 
王国 : [おうこく]
 【名詞】 1. kingdom 2. monarchy 
: [くに]
 【名詞】 1. country 

キスユラブルグント王国 : ウィキペディア日本語版
キスユラブルグント王国[きすゆらぶるぐんとおうこく]

キスユラブルグント王国(Cisjuranien)は、旧ブルグント王国のあった地域のユラ山脈以南に存在した王国ボソがプロヴァンス王位についてプロヴァンスを支配したためプロヴァンス王国とも呼ぶ。また下ブルグント王国低ブルグント王国とも呼ぶ。
ボソは西フランク王シャルル2世王妃リシルドの兄である。西フランク王国の有力な諸侯の一人であり、数々の軍功によりプロヴァンスの支配を任されていた。また、シャルル2世の王太子ルイ2世の執事・護衛長でもあった。しかしシャルル2世ボソは次第に関係が悪くなる。877年ボソはとうとう反乱を起こし、支持する諸侯からプロヴァンス王に選ばれた。ボソはキスユラブルグント(下ブルグント)も勢力範囲としていたため、ブルグント王も名乗った。ただし、この段階ではあくまでも西フランク王国内の分王国としての名乗りであった。同年にシャルル2世が死去すると、ボソはもともと後見していたルイ2世を補佐した。
879年にルイ2世が早世すると、息子のルイ3世カルロマンの二人が西フランク王に即位した。単独の王が立つべしと主張したボソは再び反乱を起こし、今度は完全に独立した。ボソ首都をブルグント領内のヴィエンヌとし、ここにキスユラブルグント王国(プロヴァンス王国)が成立した。ボソは西フランク王カルロマンと東フランク王カール3世により攻撃されたが、一度は防いだ。しかし、カルロマンを支持する弟のリシャール正義公に再び攻撃されて、882年に領土を奪われた。プロヴァンスは再び西フランク王国領となったが、ボソはプロヴァンス王とブルグント王を名乗り続けた。884年、カール3世が西フランク王位を相続してフランク王国が統一されたが、ボソだけは従わなかった。887年にボソが死ぬと、寡婦のエルメンガルドと息子のルイはカール3世の元に身を寄せ、ルイはカール3世の養子となった。
888年にカール3世が死去し、ボソの息子でカール3世の養子でもあるルイ3世がプロヴァンスを継承し、キスユラブルグント王国が復活した。ルイ3世は、トスカーナ辺境伯アダルベルト2世の要請でイタリアに進出。イタリア王ベレンガーリオ1世を破った。900年にはイタリア王に即位し、901年には西ローマ皇帝として戴冠された。900年頃、東ローマ皇帝の娘アンナを娶った。産まれた子供に西ローマ皇帝のカール大帝と東ローマ皇帝のコンスタンティヌス大帝にちなんだシャルル・コンスタンティンと名付けまさに絶頂にあった。しかし、905年にベレンガーリオ1世に捕えられて眼球を摘出され、失明したルイはプロヴァンスに追放された。ルイはプロヴァンス王を名乗り続けたが、実権は又従兄で義兄のアルル伯ウーゴが握った。ウーゴ911年にプロヴァンス公、ヴィエンヌ侯に任命された。同年、ルイ3世は首都ヴィエンヌからアルルに移した。アルルに移した後のキスユラブルグント王国はアルル王国とも呼ぶことがある。
ウーゴはルイ3世と同様にイタリアへ進出し、925年にはイタリア王に選ばれた。926年、ルイ3世を盲目にしたベレンガーリオ1世を倒してイタリア王となっていたユーラブルグント王ルドルフ2世をイタリアから追い払って単独のイタリア王となった。また、事実上イタリア王国にプロヴァンス王国を併合した。しかしルイ3世はこの隙に、息子シャルル・コンスタンティンをヴィエンヌ伯につけた。ルドルフ2世のいとこでもあるシャルル・コンスタンティンに対抗するために西フランク王国と結んだウーゴの政策は完全に裏目に出た。シャルル・コンスタンティンの影響力を削ぐことができなかったばかりか、西フランク王国のキスユラブルグント王国への介入を許した。ルイ3世は928年に死去したが、ウーゴもシャルル・コンスタンティンもプロヴァンス王に即位することはできなかった。さらに932年ウーゴはローマ教皇領の実権を握っていたマロツィアと結婚したが、マロツィアの息子アルベリーコ2世が結婚式の最中にクーデターを起こしたため、命からがら逃げ延びる。ルドルフ2世との対立も未だに続いており、ウーゴはプロヴァンスを捨ててイタリアに専念し、皇帝位を目指すことを決意する。933年ウーゴルドルフ2世にイタリアにおけるすべての権利を放棄させる代わりにキスユラブルグント王国を譲り渡した。
こうしてユーラブルグント王国キスユラブルグント王国(アルル王国)を併合し、プロヴァンス王位は廃止された。結局、ウーゴは皇帝になることもできず、息子ロターリオ2世をイタリアに残してプロヴァンスに隠棲することとなった。一方で、シャルル・コンスタンティンの娘婿ボソはアルル伯となった。さらにその跡を継いだボソの子、つまりシャルル・コンスタンティンの孫であるルボー2世、ギョーム1世はアルル伯を改称したプロヴァンス伯となった。結局はルイ3世の血統がプロヴァンスを支配し続けたのである。
==国王一覧==

*ボソ (在位:879年 - 887年、882年からは対立王)
882年にキスユラブルグント王国は勢力を弱め、大部分は西フランク王カルロマンカール3世に奪われた。
*ルイ3世 (在位:888年 - 928年
*ウーゴ (在位:928年 - 933年、正確にはプロヴァンス公)

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「キスユラブルグント王国」の詳細全文を読む




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