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カール・マイ : ミニ英和和英辞書
カール・マイ[かー]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

カー : [かー]
 【名詞】 1. car 2. (n) car
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

カール・マイ : ウィキペディア日本語版
カール・マイ[かー]

カール・フリードリヒ・マイKarl Friedrich May1842年2月25日 - 1912年3月30日)は、ドイツ小説家。ドイツ東部ザクセン州ホーエンシュタイン=エルンストタール出身。
貧困の中で育ったが、幼年期から物語の語り部として特異な才能を示す。師範学校時代に教師に反抗して軽犯罪を犯したが、服役中に刑務所内の図書館で多読したことにより、文学に目覚める。出所後に雑誌編集者時代から作家活動を始め、やがて当代随一の人気作家になる。その作品は広い世界を舞台としたものが主流であるが、とりわけ中近東オスマン帝国の領域)とアメリカ西部のインディアンの世界が中核になっている。日本の明治時代に当たる19世紀後半に活躍したが、その波乱万丈の冒険小説は、生前はもちろん第二次大戦後の現在なお、人々を遥かな夢の国へといざなってやまない。その作品は、ドイツでは百年を越す歳月のうちに、聖書に次ぐ発行部数に達しており、また日本語を含め現在43の言語に翻訳されている。
==生涯==
カール・フリードリヒ・マイは、1842年2月25日、東部ドイツ・ザクセン地方の小さな織物の町エルンストタールで生まれた。父親は貧しい織物工で、その生家もみすぼらしく、14人の子供のうち9人は2歳までに死亡していたという。5番目の息子カールだけが乳児期を生き延び、幼年期から「童話の祖母」に育てられ、その影響もあって物語の語り部として特異な才能を示した。そのため父親は自分の夢をこの息子に託して、英才教育を施した。はじめは各種童話、薬草本、絵入り聖書ほかの書物を濫読させられ、後には完本の聖書を初めから終わりまで繰り返し読んだという。
小学校のあと、本人はギムナジウム(9年制の中・高等学校)から大学への進学を切望したが、一家の経済的余裕がなく、負担の少ない師範学校へ進み、教師となった。しかし当時のドイツの学校は、教師や生徒に対して厳しい規制や拘束を課していた為、生来自由を求めてやまない気質から、しばしば軽犯罪をおかして、不当とも思われる重い禁固刑を受け、更生施設や刑務所生活を余儀なくされた。とはいえそれらの施設内に設置された図書館をマイは自由に利用することができ、あり余る時間の中で多読濫読の贅沢に恵まれたのであった。そしてその間、哀れな現実を逃れて自由な想像の翼をいくらでも広げることができる遥かな夢の世界を、文章の力によって築いていくことを自分の一生の課題と定めた。
1874年に刑務所を出た後故郷の両親のもとに帰り、執筆活動を始め、その後編集者の職を得た。しばらくのちフリーの作家として自立し、1878年にマイはガールフレンドのエマ・ポルマーとともにドレスデンへ移り住んだ。フリーランスでさまざまな雑誌に作品を発表していくうちに、次第にその人気は高まっていった。なかでもカトリック系のプステット社の人気週刊誌『ドイツ人の家宝』との間に1879年、契約を結び、アメリカ西部を舞台とした冒険物語を書き始めたのが、その大きな人気を決定づける契機となった。こうして生活に余裕のできたマイは、1880年エマと結婚した。いっぽうシュペーマン社の雑誌『よき仲間』に、1887年から10年間にわたり、「青少年向け作品」を7編寄稿したが、元教師であったこの作家が自分に課せられた使命として引き受けたものである。
しかし1891年、マイに文学的名声のみならず、経済的豊かさと社会的地位の上昇をもたらす、大きな転機が訪れた。それは南独フライブルクのフェーゼンフェルト社の申し出によって、それまで『ドイツ人の家宝』その他の雑誌に発表してきたマイの世界冒険物語を、個人全集の形で発行していくというものであった。そしてその最初のものとしてオリエント(オスマン帝国領の中近東地域)シリーズ6巻が、1892年のうちに刊行されていった。これはやがて33巻で完結した。
それまで馬車馬のように執筆活動を続けていたこの作家にも、これ以後、人々との交流をする余裕が生まれた。1895年にはドレスデン近郊のラーデボイルの高級住宅街に豪邸を購入し、その作品の主人公(アメリカ西部の英雄で、自分自身でもあった)シャターハンドにちなんで、その屋敷を「ヴィラ・シャターハンド」と名づけた。そしてこの館を中心にして社交生活が始まった。さらに広い読者に対して極めて奇抜なやり方で、つまりシャターハンドは自分自身であり、しかもそこで語られている冒険の数々は自ら体験したものである、と主張した。その風変わりな性格のために良識ある市民として日常生活を過ごすことは無理で、そのために自分が書いた作品の中の虚構(夢)の世界で、自分を限りなく展開させる道を選んだのである。そのためその書斎を、数多くの野獣の毛皮や剥製のライオン、鹿の角、様々な猟銃、ライフル銃、アラビアの水煙管、ペルシアじゅうたんなどでいっぱいに飾り立てた。またドイツ国内の各地を訪ねまわって彼の崇拝者や読者と直接コンタクトをとった。さらにオーストリア皇室やバイエルン王室にも呼ばれ、皇帝陛下や大公夫人,王女などから手厚くもてなされた。
世界冒険物語の大成功によっていまや安定した経済的基盤を築いたマイは、その作品の主な舞台となっていた中近東地域への旅行に出かけた。それは1年4ヶ月に及ぶ大旅行であった。まず北イタリアのジェノヴァ港からエジプトのカイロにわたった。そこでアラビア人の召使を雇い、1年余りの期間、マイの旅のお供をさせた。その旅行の経路をざっとたどると、ナイル河往復、パレスティナ地方から紅海に入り、汽船「バイエルン号」で、スリランカのコロンボを経て最東端のスマトラ島まで移動した。再びカイロに戻ってからは、妻のエマ及び親しい友人のリヒャルト・プレーンとその妻と一緒の旅であった。
表面的には観光旅行と言ってよいものであったが、故郷の日常生活から離れた孤独な旅は、慣れないものであった。と同時に実際に見聞し、体験した中近東世界は、それまで多年にわたって築きあげてきた「虚構の中近東」とは大きくかけ離れていて、その乖離にマイは強烈な心理的衝撃を受けた。その気持ちの激変のために、孤独な旅の間、二度も精神分裂病にかかり、療養しなければならなかった。
このオリエント大旅行後の晩年の十年余りは、その生活と作品の傾向は、以前とはすっかり異なるものとなった。それまでの英雄的主人公に成りすますという生活態度は捨て去り、その衣装も片付け、派手に飾り立てた家具調度品も整理した。そして作品の面でも、当時の帝国主義や植民地主義に反対して、平和主義に彩られるようになった。帰国後最初の作品『そして地上に平和を』は、平和主義の運動家でノーベル平和賞受賞者のベルタ・フォン・ズットナーとマイとを結びつけた。さらに晩年の作品は、神秘主義的な深みのあるものへと変貌を遂げた。
また私生活面では、精神面で結びつくことがほとんどなかった最初の妻エマと離婚し、亡くなった親友プレーンの妻クラーラと再婚した。この新しい夫人が、それ以後、マイの仕事の面でも、大きく貢献することになった。
いっぽうカール・マイは、この晩年の十年余りの間、様々な種類の非難攻撃にさらされた。初期の頃いろいろな雑誌や分冊販売誌に発表してきた作品が穿り返され、「それらは俗悪小説で、青少年に悪い影響を与えてきた」という批判のキャンペーンを、いっせいに受けたのである。非難攻撃したのは、カトリック関係者、教育関係者、保守主義者などであったが、マイを擁護したのは左派革新系の知識人、前衛の作家・芸術家、などであった。マイ自身も果敢に反論に励んだが、長い裁判沙汰に巻き込まれたりして、疲労困憊した。しかしその最晩年にはこの裁判にも勝利し、亡くなるすこし前の1912年3月には、ウィーンの講演会場で二千人の聴衆を前に、「高貴な人間の住む天空に向って」という講演を行い、拍手喝采を浴びた。ただ70歳という高齢のためもあり、冷雨の中風邪を引いた身体でラーデボイルの家に帰ったものの、1週間後の3月30日に、ただ一人妻のクラーラに付き添われて、静かに息を引き取った。ラーデボイルのラーデボイル=オスト墓地に埋葬されている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「カール・マイ」の詳細全文を読む




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