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カラバッチョ : ミニ英和和英辞書
カラバッチョ
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


カラバッチョ ( リダイレクト:ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ ) : ウィキペディア日本語版
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ

ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(、1571年9月28日 - 1610年7月18日)は、バロック期イタリア人画家
ルネサンス期の後に登場し、カラヴァッジョCaravaggio)という通称で広く知られ、1593年から1610年にかけて、ローマナポリマルタシチリアで活動した。あたかも映像のように人間の姿を写実的に描く手法と、光と陰の明暗を明確に分ける表現は、バロック絵画の形成に大きな影響を与えた〔Getty profile, including variant spellings of the artist's name. 〕。
== 概要 ==
カラヴァッジョはティツィアーノの弟子だった師匠のもと、ミラノで画家の修行を積んだ。その後、ミラノからローマへと移っているが、当時のローマは大規模な教会邸宅が次々と建築されており、それらの建物を装飾する絵画が求められている都市だった。対抗宗教改革のさなか、ローマカトリック教会はプロテスタントへの対抗手段の一つとして自分たちの教義を補強するようなキリスト教美術品を求めるようになる。しかしながら、盛期ルネサンス以降、およそ1世紀にわたって美術界の主流となっていたマニエリスムは、もはや時代遅れの様式であると見なされていた。このような状況の中、カラヴァッジョは1600年に枢機卿に依頼された作品『聖マタイの殉教』と『聖マタイの召命』とを完成させ、一躍ローマ画壇の寵児となった。極端ともいえる自然主義に貫かれたカラヴァッジョの絵画には印象的な人体表現と演劇の一場面を髣髴とさせるような、現在ではテネブリズムとも呼ばれる、強烈な明暗法のキアロスクーロの技法が使用されている。
カラヴァッジョは画家としての生涯で絵画制作の注文不足やパトロンの欠如などは経験しておらず、金銭面で困ったことはなかった。しかしながらその暮らしは順風満帆なものではなく、自宅で暴れて拘置所に送られたことが何回かあり、ついには当時のローマ教皇から死刑宣告を受けるほどだった〔Caravaggio's Rap Sheet Reveals Him to have been a Lawless, Sword-Obsessed Wildman, and a Terrible Renter ARTINFO.com〕。カラヴァッジョについての記事が書かれた最初の出版物が1604年に発行されており、1601年から1604年のカラヴァッジョの生活について記されている。それによるとカラヴァッジョの暮らしは「二週間を絵画制作に費やすと、その後1か月か2か月のあいだ召使を引きつれて剣を腰に下げながら町を練り歩いた。舞踏会場や居酒屋を渡り歩いて喧嘩や口論に明け暮れる日々を送っていたため、カラヴァッジョとうまく付き合うことのできる友人はほとんどいなかった〔Floris Claes van Dijk, a contemporary of Caravaggio in Rome in 1601, quoted in John Gash, "Caravaggio", p.13. この引用はカレル・ヴァン・マンデルの『画家列伝(画家の書)』(1604年)を底本としている。カラヴァッジョの名前が出てくる最初のローマでの記録は、パートナーで共同制作者でもあった画家プロスペロ・オルシによるもので、1594年10月の聖ルカ祭に参列した人物の一覧のなかに名前が記載されている(H. Waga "Vita nota e ignota dei virtuosi al Pantheon" Rome 1992, Appendix I, pp.219 and 220ff)。カラヴァッジョのローマ時代の暮らしぶりが記載された最初の資料は1597年7月の訴訟裁判記録で、サン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会近くで起きた事件の参考人としてカラヴァッジョとオルシが召喚されたというものである("The earliest account of Caravaggio in Rome" Sandro Corradini and Maurizio Marini, The Burlington Magazine, pp.25-28)。〕」とされている。1606年には乱闘で若者を殺して懸賞金をかけられたため、ローマを逃げ出している。さらに1608年にマルタで、1609年にはナポリで乱闘騒ぎを引き起こし、乱闘相手の待ち伏せにあって重傷を負わされたこともあった。翌年カラヴァッジョは熱病にかかり、トスカーナ州モンテ・アルジェンターリオで38歳の若さで死去する。人を殺してしまったことへの許しを得るためにローマへと向かう旅の途中でのことだった。
存命中のカラヴァッジョはその素行から悪名高く、その作品から評価の高い人物だったが、その名前と作品はカラヴァッジョの死後まもなく忘れ去られてしまった。しかし20世紀になってからカラヴァッジョが西洋絵画に果たした大きな役割が再評価されることになる。それまでのマニエリスムを打ち壊し、後にバロック絵画として確立する新しい美術様式に与えた影響は非常に大きなものだった。ルーベンスホセ・デ・リベーラベルニーニそしてレンブラントらバロック美術の巨匠の作品は、直接的、間接的にカラヴァッジョの影響が見受けらる。カラヴァッジョの次世代の画家で、その影響を強く受けた作品を描いた画家たちのことを「カラヴァジェスティ」あるいはカラヴァッジョが使用した明暗技法から「テネブリスト」と呼ぶこともある。現代フランスの詩人ポール・ヴァレリーの秘書をつとめたアンドレ・ベルネ=ジョフロワはカラヴァッジョのことを「いうまでもなくカラヴァッジョの作品から近現代絵画は始まった」と評価している〔Quoted in Gilles Lambert, "Caravaggio", p.8.〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Caravaggio 」があります。




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