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カウンシルブラフス : ミニ英和和英辞書
カウンシルブラフス[らふ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ラフ : [らふ]
  1. (adj,n) rough 2. (adj,n) rough

カウンシルブラフス : ウィキペディア日本語版
カウンシルブラフス[らふ]

カウンシルブラフス()は、アメリカ合衆国アイオワ州ポタワタミー郡の都市であり、同郡の郡庁所在地である〔Pottawattamie County, Iowa , Pottawattamie County, 2007. Accessed 2007-09-05.〕。ミズーリ川の東岸に位置する。2010年国勢調査では人口62,230 人だった〔American FactFinder . U.S. Census Bureau. 2011年2月4日. 2011年4月5日閲覧〕。ミズーリ川を挟んで対岸のネブラスカ州オマハ市や8郡を合わせた都市圏の人口は2010年時点で865,350 人となり、全米60番目の都市圏となっている。オマハ市を中心とする半径50マイル (80 km) の円の中には120万人以上が住んでおり、オマハ大都市圏を構成している。カウンシルブラフスはオマハ市よりも数十年歴史が古く、カンザス・ネブラスカ法の作られた1854年に事業家と土地投機家によって設立された。
== 歴史 ==
カウンシルブラフス市は1804年に現在のネブラスカ州カルフーン砦近くであったルイス・クラーク探検隊とオトー族インディアンとの会談で命名された。現在のネブラスカ州ベルビューからミズーリ川を挟んで対岸のアイオワ州ミルズ郡北西部の地域が後にカウンシルブラフスと呼ばれるようになった。
現在のカウンシルブラフス市には、1838年にポタワトミー族インディアンのソーガナッシュ・バンドがシカゴ市となった場所から移住してこの地に最初に入った。ソーガナッシュの英語名はビリー・コールドウェルだったので、ポタワトミー族の主要居住地はコールドウェルのキャンプと呼ばれた。アメリカ陸軍がコールドウェルのキャンプ近くに小さな砦を建設し、これをカウンシルブラフス宿営所と名付け、約1年間軍隊が駐屯した。1838年から1839年に掛けて、伝道師ピエール=ジャン・デ・スメーがセントジョゼフ伝道所の設立に貢献し、放棄されていたカウンシルブラフス宿営所を引き継いで、ポタワトミー族への伝道を行った。デ・スメーはウィスキーの交易に伴う殺人や残酷さに驚愕して、宗教的改宗促進にはほとんど成功せず、インディアンの子供達を密かに洗礼させるに留まっていた。この期間、デ・スメーはジョセフ・ニコレットのアメリカ合衆国中西部北方の地図作りを助け支援した。この時に得た地図作りの技能を活かして、プラット川から下流ビッグスー川までのミズーリ川流域の詳細地図を初めて作成した。この地図にはカウンシルブラフス地域の詳細も含まれていた〔Whittaker (2008): Pierre-Jean De Smet’s Remarkable Map of the Missouri River Valley, 1839: What Did He See in Iowa? ''Journal of the Iowa Archeological Society'' 55:1-13.〕〔Mullen, Frank (1925) Father De Smet and the Pottawattamie Indian Mission. ''Iowa Journal of History and Politics'' 23:192-216.〕。
デ・スメーはカウンシルブラフスとなった場所について最も初期の説明を次のように書いていた。
カウンシルブラフス地域に多くのインディアン部族が押し込められるに連れて、部族間の紛争が増え、違法なウィスキーの交易で増幅された。1842年にクローガン砦が建設され、ミズーリ川による酒類の行き来に秩序を与え統制した。1844年にスティーブン・タウンゼント・マーフィー隊がここでミズーリ川を渡り、1848年にはこの町がトマス・L・ケインに因んで「ケインズビル」と名付けられた。コールドウェルのキャンプにあるいはそれに隣接して建設されたケインズビルは、モルモン開拓者ユタに向けて旅立つ主要な出発点になった。コロラドの著名な自然学者エドウィン・カーターは1848年から1859年までここで暮らし、モルモンの荷車に物資を供給する乾物屋で働いた。
米墨戦争のとき、モルモン大隊がケインズビルからカリフォルニアへの行軍を始めた。多重婚が初めて公に実行され、ブリガム・ヤング末日聖徒イエス・キリスト教会の2代目指導者となった。
ケインズビルの地域社会はカリフォルニア・ゴールドラッシュによって変化させられ、1852年までにモルモン教徒の大半がユタに向けて旅立った。この町はカウンシルブラフスと名前を変え、ミズーリ川沿いにある移民の道への主要な出発点であり続け、蒸気船を使った活発な交易が行われた。1867年シカゴ・アンド・ノースウェスタン鉄道がカウンシルブラフスまで届き、1869年に最初の大陸横断鉄道1872年ユニオン・パシフィック鉄道ミズーリ川橋開通と続き、カウンシルブラフスは鉄道の一大中心になった。その他に市内に入ってきた鉄道としては、シカゴ・ロック・アイランド・アンド・パシフィック鉄道シカゴ・グレートウェスタン鉄道ウォーバッシュ鉄道イリノイ・セントラル鉄道シカゴ・バーリントン・アンド・クインシー鉄道、およびシカゴ・ミルウォーキー・セントポール・アンド・パシフィック鉄道があり、1930年代までに国内でも5番目に大きい鉄道中心地となった。これらの鉄道によって、穀物の貯蔵地にもなり、幾つかの穀物倉庫が市内のスカイラインの中に点在することになった。市内の他の企業としては、ジャイアント・マニュファクチャリング、リライアンス・バッテリーズ、モナーク、モナ・モーターオイル、ウッドワーズ・キャンディ、キンボール・エレベーターズ、ワールドラジオ、ドォーフィーズ・シリアル、ジョージー・ポージー・シリアル、ブルースター・フーズ、およびフリトレーがあった。1926年、ミズーリ川の西岸にあったカウンシルブラフス市の一部が分離されてアイオワ州カーターレイクとなった。1940年代、ギャングのマイヤー・ランスキーはグレイハウンドのレース場を運営した。
20世紀の後半は経済不況、中心街の再開発、および人口の減少が顕著だった。アイオワ州における賭博の自由化によって、1986年にはブラフス・ラン・グレイハウンド公園が開設された。2005年にはアメリカ合衆国でも19番目に大きな賭博市場となり、売上げは4億3,400万ドル近くなった。アメリスターやハラーズ、さらには2007年ポーカー・ワールドシリーズの開催地となったホースシュー・カジノが有名である。市内にある製造業としては、タイソン・フーズ、コン・アグラ、アメリカン・ゲームズ、オマハ・スタンダード、バートン・ソルベンツ、ケテルマン・ファンドリー、レッドジャイアント・オイル、およびグリフィン・パイプがあり、2007年6月、グーグルが新しいサーバー保管場所としてカウンシルブラフスを選んだことを公表した。現在、高規格道路としては州間高速道路80号線、同29号線、アメリカ国道6号線、レスヒルズ国立景観道路が、また鉄道ではユニオン・パシフィック鉄道、BNSF鉄道、アイオワ州間鉄道、およびカナディアン・ナショナル鉄道がカウンシルブラフスを通っており、市の南部境界近くにはミッドアメリカン・エナジーの大規模石炭炊き発電所がある。


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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