翻訳と辞書
Words near each other
・ エルンスト・ブッシュ (俳優)
・ エルンスト・ブッシュ (軍人)
・ エルンスト・ブロッホ
・ エルンスト・ヘウスラー
・ エルンスト・ヘッケル
・ エルンスト・ヘフリガー
・ エルンスト・ヘルツ
・ エルンスト・ヘルマン・マイヤー
・ エルンスト・ベンダ
・ エルンスト・ベーコン
エルンスト・ベーリンク
・ エルンスト・ベーリング
・ エルンスト・ペッピング
・ エルンスト・ホフマン
・ エルンスト・ホーエンベルク
・ エルンスト・ボリス・チェーン
・ エルンスト・ポール
・ エルンスト・マイ
・ エルンスト・マイア
・ エルンスト・マイヤー


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

エルンスト・ベーリンク : ミニ英和和英辞書
エルンスト・ベーリンク[ちょうおん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

エルンスト・ベーリンク ( リダイレクト:エルンスト・ベーリング ) : ウィキペディア日本語版
エルンスト・ベーリング[ちょうおん]

エルンスト・ルートヴィヒ・ベーリングErnst Ludwig Beling, ベーリンクとも。1866年6月19日 - 1932年5月18日)はドイツの刑法学者。グローガウ生、ミュンヘン没。1912年11月にの叙勲を受け貴族に列し〔
の叙任については記事「」を参照。
〕、以降エルンスト・ルートヴィヒ・フォン・ベーリングErnst Ludwig von Beling)とも呼ばれるが、本人は生涯を通してこの称号を用いなかった〔
〕。
ベーリングは犯罪(/ドイツ法下での説明)を「構成要件()に該当し、かつ違法有責な行為」と定義した。以降ドイツ法下の刑法学はこの三分説を基礎とし、とりわけ刑法総論において、「構成要件該当性」()、「違法性」()、「」()を主題としている〔
〕。
== 経歴 ==
ベーリングは1866年、シュレージエンのグローガウに生まれた。当時彼の父親は裁判官であった。母親はゲルリッツの法曹一家の出身で、郡地方〔
("Kreis")
〕裁判所判事〔
"Kreisgerichtsrat".
〕であるパウル(Paul)の娘である。1885年、ベーリングはライプツィヒ大学に入学し、法学を学び始めた。同大学在学中は、「ブルシェンシャフト・ノルマンニア・ライプツィヒ」("''Burschenschaft Normannia Leipzig''")に加入していた〔
Ernst Elsheimer (Hrsg.): ''Verzeichnis der Alten Burschenschafter nach dem Stande vom Wintersemester 1927/28.'' Frankfurt am Main 1928, S. 28.
〕。彼はライプツィヒにて、の影響により刑法("Strafrecht")に興味を持った。この時のことについてベーリング自身はこう記している、「刑法学者になったならば、それは親譲りということだろう。」〔
Planitz, Hans; Die Rechtswissenschaft der Gegenwart in Selbstdarstellungen, p. 5(以下"Planitz"と略す。)原文:

„Wenn ich Kriminalist geworden bin, so hat mich Binding dazu gemacht.“
1886年ブレスラウ大学に移籍、そこで3ゼメスターの間学究に努めたのち、「試験」("Referendarprüfung")を受験、また1890年博士号("Promotion")を授与された。1893年1月14日、ベルリンにて国家試験に合格した〔
"".
Planitz., p. 7
〕。ベーリングは司法修習期間中に教授資格論文の執筆にも取り組み〔
"".
〕、1893年5月15日からはブレスラウ大学に私講師("Privatdozent")〔
、ドイツ・オーストリアのなどを参照。
〕として採用され、刑法刑事訴訟法("Strafprozeß")、民事訴訟法("Zivilprozeß")、国際法("Völkerrecht")を専門とし教鞭を振るった〔
Planitz., p. 8
〕。1897年、同大学にて彼はアルフレート・シュルッツェ(Alfred Schultze)の後継として、刑法、刑事訴訟法、国際法、国際私法国際刑事法("internationales Privat- und Strafrecht")、法学基礎の各講座の員外教授〔〔
"Extraordinariat".
〕の地位を与えられ、更に1898年7月2日、が亡くなった後の推挙を受けて、晴れて正教授〔〔
"Ordinarius".
〕の地位に就いた〔
Planitz., p. 9
〕。
1900年、彼は5ゼメスター間のみギーセン大学の教授職に就いた。1902年の秋頃には、テュービンゲン大学からの招聘を受けた。1903年1月15日、著名な講座として名高い彼の就任講義("Antrittsvorlesung")„''Die Beweisverbote als Grenze der Wahrheitsforschung im Strafprozess.''“(「刑事訴訟における真理探究に対する限界としての証拠禁止〔
"Beweisverbot". これに対し証拠能力を持つと認められるものは、、証拠原因
〕について」)を同大学にて開催した。テュービンゲン大学ではまた、『犯罪論』(„''Die Lehre vom Verbrechen''“)〔
既に著作権の保護期間を満了しており、次のURLからEPUBなどの各種電子書籍用データが無償で取得可。

"''Die Lehre vom Verbrechen''", Beling, Ernst, 1866-1932 : Free Download & Streaming. by Internet Archive.

紙媒体では次のものがあり。ISBN 9781421241623 .
〕という著作を残しており、彼と幾人かがこの著書の執筆を通じて、刑法学における体系的な基礎概念である構成要件の枠組みを構築した。1912年から13年に渡って、ベーリングはテュービンゲン大学の学長の職〔
"".
〕に就いた。1913年の夏季ゼメスター期間からはミュンヘン大学に移り、1932年に死去するまで同学で教鞭を振るった。
次のような彼の言葉が残されている。


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「エルンスト・ベーリング」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.