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エルンスト・フォン・シューフ : ミニ英和和英辞書
エルンスト・フォン・シューフ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

エルンスト・フォン・シューフ : ウィキペディア日本語版
エルンスト・フォン・シューフ[ちょうおん]

エルンスト・フォン・シューフ(Ernst von Schuch、出生時の名前はエルンスト・ゴットフリート・シューフErnest Gottfried Schuch、1846年11月23日 (グラーツGraz)- 1914年5月10日(ニーダーレスニッツNiederlößnitz))は、オーストリアの指揮者。ドレスデン宮廷歌劇場でリヒャルト・シュトラウスとともに活躍した。
== 略歴 ==
グラーツに生まれる。初めは法律を修め、のちにフェリックス・オットー・デッソフの下で音楽を学ぶ。1867年、ブレスラウのテオドール・ローベの下で指揮を始める。その後、ヴュルツブルク(1868~70年)、グラーツ(1870~71年)、バーゼル等の歌劇場指揮者を歴任。
1872年、ポリーニPolliniによってドレスデンに迎えられ、同年宮廷歌劇場の音楽監督に就任。1873年以降はユーリウス・リーツJulius Rietz(後にフランツ・ヴュルナーFranz Wüllner)とともに宮廷楽長を務める。
1882年、顧問官として宮廷歌劇場の運営を引き継ぎ、1889年ドレスデン宮廷歌劇場音楽総監督に就任。在任中、ワーグナートリスタンとイゾルデ』、『ニーベルングの指環』のドレスデン初演や、リヒャルト・シュトラウスのオペラ『火の危機』(1901年)、『サロメ』(1905年)、『エレクトラ』(1908年)、『ばらの騎士』(1910年)の初演を成功に導き、オペラの上演水準、附設管弦楽団のレベルを飛躍的に向上させ、同歌劇場に一大黄金期をもたらした。シューフの活躍は画期的な「シューフの時代」として歴史にその名をとどめている。
1898年にはオーストリア皇帝より世襲貴族への昇格を許され、1899年にはザクセン王国枢密顧問官に就任。1909年にはザクセン王国から貴族位を叙せられた。妻クレメンティーネ、長女リーゼルはともにソプラノ歌手。ドレスデンに没した。
なお、指揮者トスカニーニは他の指揮者を褒めることはめったになかったが、シューフに対する評価は温かく〔Haggin, B. H. (1959), "Conversations with Toscanini", Doubleday & Company Inc., p. 106.〕、演奏を聴いた時のことを回想し「恍惚となってしまった」〔 Haggin, B. H. (1967), "Toscanini Musicians Knew", Horizon Press, p. 173.〕と語るなど、高く評価した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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