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エウドキヤ・ロプーヒナ : ミニ英和和英辞書
エウドキヤ・ロプーヒナ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

エウドキヤ・ロプーヒナ ( リダイレクト:エヴドキヤ・ロプーヒナ ) : ウィキペディア日本語版
エヴドキヤ・ロプーヒナ[ちょうおん]

エヴドキヤ・フョードロヴナ・ロプーヒナ(, 1669年8月9日[ユリウス暦7月30日] - 1731年9月7日[ユリウス暦8月27日])は、ロシアのツァーリ・ピョートル1世の最初の妃。アレクセイ・ペトロヴィチ皇子の母親、ピョートル2世の祖母。
== 生涯 ==
エヴドキヤは貴族のフョードル・アブラモヴィチ・ロプーヒンとその妻ウスティーニャ・ボグダノヴナ・ルティシチェヴァの娘として、モスクワに生まれた。17世紀のロシアの皇妃の大半がそうだったように、有力貴族の家柄には属さなかった。エヴドキヤは、ツァーリ・ピョートルの母親ナタリヤ・ナルイシキナによって息子の嫁に選ばれた。エヴドキヤの母が有力政治家フョードル・ルティシチェフの親戚であることが理由で、エヴドキヤに白羽の矢が立ったのである。エヴドキヤは1689年にツァリーツァとして戴冠し、夫とのあいだに3人の息子をもうけたが、成長したのは長男のアレクセイだけだった。
*アレクセイ(1690年 - 1718年)
*アレクサンドル(1691年 - 1692年)
*パーヴェル(1693年)
夫のピョートルはエヴドキヤの頑迷固陋な親族たちを取り立ててやることはせず、すぐにエヴドキヤを捨ててオランダ人の愛妾アンナ・モンスに心を移した。エヴドキヤが夫に宛てた手紙には、自分の夫に対する愛情が報われないことに関する恨み事に満ちている。
1696年、ピョートルは西欧への大旅行の最中に、ナルィシュキン家の親族たちにエヴドキヤを説得して修道院に入らせるように頼んだ。エヴドキヤは最初この説得をはねつけたが、1698年にはスーズダリのポクロフスキー修道院に入ることを余儀なくされた。この修道院の典院(修道院長)は、エヴドキヤが俗人の女性として暮らすことを認めた。エヴドキヤはステパン・グレボフという役人と愛人関係になったが、グレボフは後に四つ裂きの刑に処せられた。
エヴドキヤと息子のアレクセイは次第に、高位聖職者を始めとするピョートル1世の改革に反対する派閥の中心的存在になっていった。反対派の指導者の一人であったロストフのディミトリイ府主教は、エヴドキヤを「我らの偉大なる統治者」と呼び、エヴドキヤがもうすぐ皇妃の座に返り咲くだろうと予言した。エヴドキヤとアレクセイの周りに集まっていた保守派は1718年にピョートル1世によって粛清された。アレクセイは拷問をうけて死に追いやられ、エヴドキヤを支持する主教全員が処刑され、エヴドキヤ自身もスタラヤ・ラドガの修道院に追放された。
ピョートル1世の死後、その帝位を継承した後妻のエカチェリーナ1世は、秘密裏にエヴドキヤをサンクトペテルブルク郊外のシュリッセリブルク監獄に収容した。
1727年、孫のピョートル2世が皇帝になると、エヴドキヤは直ちに牢獄から出されて首都のモスクワに招かれた。エヴドキヤは1731年にノヴォデヴィチ女子修道院で死ぬまで、自分の宮廷を持つことを許された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「エヴドキヤ・ロプーヒナ」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Eudoxia Lopukhina 」があります。




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