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ウィリアム・S・ギルバート : ミニ英和和英辞書
ウィリアム・S・ギルバート[うぃりあむえすぎるばーと]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ウィリアム・S・ギルバート : ウィキペディア日本語版
ウィリアム・S・ギルバート[うぃりあむえすぎるばーと]

ウィリアム・シュベンク・ギルバート(〔The name ''Gilbert'' is pronounced with a hard G.〕、1836年11月18日 - 1911年5月29日)は、イギリス劇作家リブレット作者詩人イラストレーターであり、作曲家アーサー・サリヴァンとの共作になる14の喜歌劇サヴォイ・オペラと呼ばれた)で良く知られている。その中でも有名なのが『H.M.S.ピナフォア』、『ペンザンスの海賊』であり、歌劇場の歴史でも最も多く公演された作品の1つが『ミカド』である〔Kenrick, John. ''G&S Story: Part III'' , accessed 13 October 2006; and Powell, Jim. ''William S. Gilbert's Wicked Wit for Liberty'' accessed 13 October 2006.〕。これらの作品やその他幾つかのサヴォイ・オペラは英語圏の歌劇団、レパートリー劇団、学校、コミュニティ劇団といった枠を超えて度々演じられ続けている。これら作品の台詞は英語の一部となっており、例えば「素早く厳しい罰」、「何、一度も無い?それではほとんど無い!」〔Lawrence, Arthur H. "An illustrated interview with Sir Arthur Sullivan" Part 3, from ''The Strand Magazine'', Vol. xiv, No.84 (December 1897)〕や、「犯罪に罰を合させよう」がある〔The last phrase is a satiric take on Cicero's ''De Legibus'', 106 B.C. See Green, Edward. "Ballads, songs and speeches" , BBC, 20 September 2004, accessed 16 October 2006.〕。
ギルバートは『バブ・バラーズ』という軽妙な詩の広範な詩集に、自作のコミカルな絵を添えた作品も書いた。その作品には75以上の劇と喜歌劇、多くの物語、詩、歌詞、コミックやシリアスなものがあった。その劇とト書きの現実主義的スタイルは、オスカー・ワイルドジョージ・バーナード・ショーなど他の劇作家に影響を与えた〔Feingold, Michael, "Engaging the Past" , ''The Village Voice'', 4 May 2004〕。「ケンブリッジ英米文学史」に拠れば、ギルバートの「抒情的な腕前と韻律に精通していたことが、喜歌劇の詩的な質を以前には到達されていなかった、さらにそれ以後も到達できていない地位に上げた」としている〔''The Cambridge History of English and American Literature'', Volume XIII, Chapter VIII, Section 15 (1907–21), The full quote refers to ''Pygmalion and Galatea'' and reads: "The satire is shrewd, but not profound; the young author is apt to sneer, and he has by no means learned to make the best use of his curiously logical fancy. That he occasionally degrades high and beautiful themes is not surprising. To do so had been the regular proceeding in burlesque, and the age almost expected it; but Gilbert's is not the then usual hearty cockney vulgarity."〕。

== 生い立ちと初期の経歴 ==

=== 生い立ち ===

ギルバートは1836年11月18日にロンドンのストランド、サウサンプトン通り17で生まれた。父もウィリアムという名であり(1804年-1890年)、短期間海軍軍医を務め、後には小説や短編小説の作家となり、その作品の幾つかは息子によって解説されている。母はトマス・モリスの娘アン・メアリー・バイ・モリス(1812年-1888年)であり、薬剤師だった〔Stedman, Jane W. "Gilbert, Sir William Schwenck (1836–1911)" , ''Oxford Dictionary of National Biography'', Oxford University Press, September 2004, online edn, May 2008, accessed 10 January 2010 (subscription required)〕。両親ともによそよそしく厳格であり、ギルバートはそのどちらとも特に親密な関係を持てなかった。両親は次第に喧嘩が激しくなり、1876年に破綻が来た後、ギルバートの両親、特に母との関係はよりぎすぎすしたものになった〔Pearson, pp. 16–17〕。ギルバートには妹が3人おり、その内2人は家族で旅していた間に生まれたのでイングランド生まれではなかった。ジェイン・モリス(1838年イタリアミラノ生まれ - 1906年)は、細密画家のアルフレッド・ウェイガルと結婚した。アン・モード(1845年-1932年)とメアリー・フローレンス(1843年フランスブーローニュ生まれ - 1911年)はどちらも結婚しなかった〔Ainger, family tree and pp. 15–19〕〔Eden, David. ''Gilbert: Appearance and Reality'', p. 44, Sir Arthur Sullivan Society (2003)〕。ギルバートは赤ん坊の頃に「バブ」と呼ばれ、その後父の名付け親に因んで「シュベンク」と呼ばれるようになった〔。
ギルバートが子供の頃の1838年に両親とイタリアに、さらにフランスに2年間旅し、ロンドンに戻って落ち着いたのは1847年になっていた。7歳からフランスのブーローニュで教育を受け(後に日記をフランス語で書いていたので、従僕はそれを読めなかった)〔Morrison, Robert, ''The Controversy Surrounding Gilbert's Last Opera ''〕、その後ロンドンのブロンプトンにあったウェスタン・グラマースクールで学び、さらにグレート・イーリング・スクールに進んだ。そこでは代表生徒となり、学校劇の戯曲を書き、景色の絵を描いた。その後キングス・カレッジ・ロンドンに進学して、1856年に卒業した。陸軍砲兵隊の任官を得る試験を受けるつもりだったが、クリミア戦争(1853年-1856年)が終わっていたので、新兵はほとんど必要とされず、ギルバートが得られる任官は歩兵連隊のものに過ぎなかった。その代わりに行政職に就くことになった。4年間枢密院事務所の事務官捕を務め、その職を憎むようになった。1859年、イギリス防衛のために結成された暫定志願兵部隊である民兵隊に加わり、それを1878年まで務め(その間に著作や他の仕事をした)、大尉の位まで昇進した〔Pearson, p. 16. He first joined the 5th West Yorkshire Militia, and later the Royal Aberdeenshire Highlanders. Upon leaving the Militia, Gilbert was given an honorary promotion to major. Stedman (1996) p. 157 and Ainger, p. 154〕。1863年、300ポンドの遺産を受け取り、それで行政職を離れ、短期間法廷弁護士を務めたが(既に学生としてインナー・テンプルに入っていた)、この法律実務は1年間平均5人の客しか付かず成功しなかった〔Gilbert, W.S. ed. Peter Haining – Introduction〕。
ギルバートは1861年から収入を補うために、様々な物語、喜劇の吹き出し、グロテスクな挿絵、演劇評論(多くは評論される劇のパロディという形態で書かれた)〔Stedman, Jane W. ''W. S. Gilbert's Theatrical Criticism''. London: The Society for Theatre Research, 2000. ISBN 0-85430-068-6〕を書き、「バブ」(子供時代の呼び名)というペンネームで、コミック雑誌数誌のための挿絵入り詩を書いた。雑誌は主に、1861年にヘンリー・J・バイロンが始めた「ファン」だった。ロンドン社交界のティンズリーの雑誌である「コーンヒル・マガジン」や「テンプル・バー」などに物語、記事、評論を掲載した。さらに「ランバリッド・ルッス」のロンドン特派員となり、「イラストレイテッド・ロンドン・タイムズ」には劇評を書いた。1860年代、トム・フッドのクリスマス年刊誌「サタデーナイト」、「コミック・ニューズ」、「サベージ・クラブ・ペーパーズ」にも投稿した。1870年には「オブザーバー紙がギルバートを従軍特派員としてフランスに派遣して、普仏戦争の報告をさせた〔。
ギルバートがユーモアを入れて作った詩は大きな人気を博し、『バブ・バラーズ』として単行本になった〔Stedman (1996), pp. 26–29. See also the introduction to Gilbert, W.S. (1908), ''The Bab Ballads,'' etc, which details the history of the collections it was drawn from.〕。後にこれらの多くをその戯曲や喜歌劇の材料として使うことになった。ギルバートと「ファン」の仲間達、トム・ロバートソン、トム・フッド、クレメント・スコット、F・C・バーナード(1862年に「パンチ」に移った)は、アランデル・クラブ、サベージ・クラブ、特にエバンスのカフェを度々訪れ、「パンチ」の円卓と競ってテーブルを囲んだ〔Stedman (1996), pp. 16–18. See also Tom Robertson's play ''Society'', which fictionalised the evenings in Evans's café in one scene.〕。
1860年代半ばに小説家アニー・トーマスと関係を持った後〔Ainger, p. 52〕、ギルバートは1867年にルーシー・アグネス・ターナーと結婚した。妻のことは「キティ」と呼んだ。彼女は11歳年下だった。ギルバートは長年にわたって多くの愛情あふれる手紙をルーシーに書いていた。ギルバートとルーシーは、ロンドンと後にグリムズダイクで社交活動を行い、しばしばディナーパーティを主催し、また他の者の家にディナーに招待もされており、映画『トプシー・ターヴィー』のような架空の世界に描かれたものとは対照的である。ギルバート夫妻には子供が無かったが、エキゾティックなものなど多くのペットを飼っていた〔Ainger, p. 148 and Stedman (1996), pp. 318–20. See also Bond, Jessie. Reminiscences, Chapter 16 and McIntosh.〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ウィリアム・S・ギルバート」の詳細全文を読む




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