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アール・ブリュット・コレクション : ミニ英和和英辞書
アール・ブリュット・コレクション[あーる]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

アール : [あーる]
 【名詞】《単位》 an are
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

アール・ブリュット・コレクション : ウィキペディア日本語版
アール・ブリュット・コレクション[あーる]

アール・ブリュット・コレクション () は、アール・ブリュットの概念を提唱したフランスの画家ジャン・デュビュッフェが蒐集したコレクションをもとに発足した、スイスローザンヌにあるアウトサイダーアートの美術館。
== 沿革 ==
1923年、ジャン・デュビュッフェは、兵役中に気象関係の部署に配属された際、ある女性から送られてくる雲の中に浮かぶ幻影の克明な記録を見て、精神病の患者の視覚表現に興味を抱くようになった〔小出由紀子 「アウトサイダーアートの系譜」『芸術新潮』1993年12月号、芸術新潮社、1993年、62頁
〕。またジャン・デュビュッフェは、ドイツ人の精神科医であるハンス・プリンツホルン1922年に出版した、精神病患者が作った絵画などの作品の中で際立った芸術的表現を見せた作品を収集してまとめた『精神病者の芸術性』(Bildnerei der Geisteskranken)という本を読み、強い感動を覚えた。
40歳を過ぎてから、ジャン・デュビュッフェは本格的に画家として生きていく決意を固めた。ジャン・デュビュッフェはかねてから強い関心を抱いていた精神病患者の作品など、正統とされる芸術表現を逸脱した作家の芸術作品をもっと見たいと考え、1945年、スイスそしてフランス各地の精神病院、監獄などを訪れ、アウトサイダーアートの蒐集を開始した〔Histoire de Art l'art brut(アール・ブリュットの歴史) 『Art Brut du Japon(日本のアール・ブリュット)』アール・ブリュット・コレクション日本展カタログ、アール・ブリュット・コレクション、2008年、107頁〕。これが現在のアール・ブリュット・コレクションの源流である。
1947年にはパリ中心部にある画廊の地下室で、蒐集したアウトサイダーアートの展示が始まった。ジャン・デュビュッフェはその後も各地でアウトサイダーアートを蒐集し、コレクションを充実させていった。1948年にはジャン・デュビュッフェはシュルレアリストのアンドレ・ブルトンらとともに、アール・ブリュット協会を設立し、1949年には展覧会が行われ、注目を集める。しかし資金不足とアール・ブリュット協会内での会員同士の対立などのため、アール・ブリュット協会の活動は低迷し、1951年には解散する。この背景には、両者の思想の対立があった。デュビュッフェは、作品そのものに価値があるとみなし、愛したのだが一方、ブルトンたちシュルレアリストには、アウトサイダー・アートを制作するひとの狂気への興味が優先し、それがいかに自分たちの作品と近いかを参照する手段として、アウトサイダー・アートはあった訳である。
1951年、ジャン・デュビュッフェの蒐集したコレクションは、戦後に知り合った友人の画家、アルフォンソ・オッソーリオの勧めにより、ニューヨーク近郊のイーストハンプトンのオッソーリオの邸宅で保管されることになった。この頃、ジャン・デュビュッフェは自らの創作活動に力を注ぎ、アウトサイダーアートの蒐集にはほとんど取り組まなかった〔リュシエンヌ・ペリー 「対極間の電気ショート」『アウトサイダーアートの世界』 はたよしこ編著、紀伊国屋書店、2008年、28頁〕。また、オッソーリオに対し、アメリカ合衆国のアウトサイダー・アートの発掘の促しにオッソーリオは応じず、コレクションは増えなかった。だがこの寄贈(と1951年のシカゴでのデュビュッフェの講演)がアメリカ、中でもシカゴ・イマジストにアウトサイダー・アートへの関心を持たせることとなった。
1950年代末からデュビュッフェは活動を再開し、1962年にコレクションをイーストハンプトンからパリへと戻すと、アール・ブリュット協会も復活させた。この際、オッソーリオにジャンヌ・トリピエオーギュスト・フォレスティエなど十点を分け与えているが、これらの作品はいま、やはりアール・ブリュットを専門とするabcd協会に渡っている〔小出・デシャルム (2005)p.70〕。1964年からはアール・ブリュット協会の協会誌の発行を開始し、そして1967年にはパリ装飾美術館でジャン・デュビュッフェが蒐集したコレクションの大規模な展覧会が行われた。
自らが蒐集したコレクションの公的な扱いを希望したジャン・デュビュッフェであったが、フランス国内での寄贈は拒否されてしまい〔ジュヌヴィエーヴ・ルーラン 「画家デュビュッフェを虜にした生の芸術」『芸術新潮』1993年12月号、芸術新潮社、1993年、55頁
〕、かねてから関係が深かったスイスで受け入れ先を探した結果、1971年、コレクションの受け入れを表明したスイスのローザンヌ市に寄贈する決意をした。
ローザンヌ市は、18世紀に建てられた貴族の館であるボーリュウ館を改装し、ジャン・デュビュッフェのコレクションを展示することとした〔Histoire de Art l'art brut(アール・ブリュットの歴史) 『Art Brut du Japon(日本のアール・ブリュット)』アール・ブリュット・コレクション日本展カタログ、アール・ブリュット・コレクション、2008年
109頁〕。1975年にジャン・デュビュッフェのコレクションはローザンヌに移送され、翌1976年2月26日、アール・ブリュット・コレクションは開館した。
ローザンヌにコレクションが移転された段階で、これ以上アウトサイダーアートのコレクションを増やすことについて慎重意見が出された。これは向精神薬の発達や作業療法の発展によって、精神病患者の作品の独自性が薄れてきたことなどを懸念する声が出たためであるが、ジャン・デュビュッフェは蒐集を継続することを決断した〔ミッシェル・デヴォー 「アール・ブリュットの乱入」『アウトサイダー・アート』 求龍堂、2000年、139頁
〕。その後も世界各地から優れたアウトサイダーアートの作家が発掘されており、アール・ブリュット・コレクションの蒐集作品も増え続けている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「アール・ブリュット・コレクション」の詳細全文を読む




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