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アートフル : ミニ英和和英辞書
アートフル[あーと]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

アート : [あーと]
 【名詞】 art
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

アートフル : ウィキペディア日本語版
アートフル[あーと]

アートフル1902年-1927年)とは、アメリカ合衆国競走馬、および繁殖牝馬である。1904年1905年の最優秀牝馬に選出された競走馬で、フューチュリティステークスではサイゾンビーに生涯唯一の敗北を与えた。1956年アメリカ競馬殿堂入りを果たしている。
== 経歴 ==
1902年ウィリアム・コリンズ・ホイットニー所有のウェストベリーステーブルで生まれた牝馬である。ウィリアムは1904年2月2日に没するまでの生涯で26頭のステークス競走勝ち馬の所有者となった大馬主で、後にその財産は多くは息子のハリー・ペイン・ホイットニーへと受け継がれた。2歳の時に競売に掛けられていたアートフルもハリーによって10000ドルで購入され、彼の所有のもとで競走馬としてデビューした。
1904年8月にサラトガ競馬場でデビューした。初戦では同厩舎のドリーマーに2着で敗れ、次の競走もまた同厩舎のプリンセスルパートの2着に終わった。このデビュー時の2回の敗戦については、実際は2走とも1位で入線するだけの余力がありながら、わざと負けたという説がある。これは当時に勝ち馬申告制度(declare)〔同馬主による競走馬が2頭以上同じ競走に出走した場合、馬主は競走前に勝たせたい馬がどれであるかを申告しておく必要があった。アートフルに先着した競走馬は、両方ともハリー所有のものであった。〕というものが存在したためであり、その申告を遵守するために抑えて走ったというものである。この説には未だ確たる証拠が存在しないが、デイリーレーシングフォームにおけるフランク・ブリュネルの論評でもこの説は支持されている。
この2戦の後、アートフルはどの競走でも申告によって勝ちを除外されることはなくなり、また一度も負けることなく引退まで至った。
アートフルが3戦目に出走した競走は、当時シープスヘッドベイ競馬場で行われていたフューチュリティステークスで、ここにはその頃デビューから4連勝中のサイゾンビーが出走していた。この競走において、アートフルはこの強豪馬に5馬身差をつけて優勝、大金星で初勝利とステークス競走勝ちを収めた〔サイゾンビーは生涯で15戦14勝の戦績を誇り、同競走以外では一度も負けなかった。このため、この競走前にサイゾンビーに対して薬物が盛られていたという噂が存在し、それが敗因であるとする説もある。〕。
翌戦グレートフィリーステークスには、カナダの2歳牝馬チャンピオンであるオワソーや、フィリー&フューチャークラシックステークスの勝ち馬ターニャ、未だ不敗の牝馬トラディションが顔を並べていたが、アートフルはこれらを破ってその実力を確かなものと知らしめた。その次に出走したホワイトプレーンズハンデキャップが同年の最終戦で、アートフルは2歳牝馬ながら130ポンド(約59キログラム)の斤量を積まされていたが、29ポンド軽量の牡馬ダンデライオンを2着に下し、なおかつ6ハロン(約1207メートル)1分08秒のトラックレコードを記録した。これにより、アートフルは同年のアメリカ最優秀2歳牝馬に選出されている。
明けて3歳シーズン、アートフルは年初に短距離戦を2戦こなし、ともに余裕を持って勝ちを決めた。それまで短距離の競走を中心に出走していたアートフルであったが、最後の競走として出走したのは1マイル1/4(10ハロン・約2012メートル)のブライトンハンデキャップであった。この競走には当時の強豪牝馬ベルデイムが出走しており、アートフルはそれを制して優勝、その実力が短距離以外でも通用することを証明した。また、この年は3戦しか出走しなかったにもかかわらず、アートフルは同年の最優秀3歳牝馬として選出された。
ブライトンハンデキャップを最後に引退し、以後ホイットニー家の牧場で繁殖入りした。しかし繁殖牝馬としての結果は現役時代からは程遠く、生涯で1頭のステークス勝ち馬すらも出すことができなかった。1927年、アートフルは25歳でこの世を去った。
1956年アメリカ競馬名誉の殿堂博物館はその競走成績を評価し、アートフルを殿堂馬の一頭として加えることを発表した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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