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アンネ・フランク : ミニ英和和英辞書
アンネ・フランク[らんく]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ラン : [らん]
 【名詞】 1. (1) run 2. (2) LAN (local area network) 3. (P), (n) (1) run/(2) LAN (local area network)
ランク : [らんく]
 【名詞】 1. rank 2. (n) rank

アンネ・フランク : ウィキペディア日本語版
アンネ・フランク[らんく]

アンネ・フランクアンネリース・マリー・フランク、 、1929年6月12日 - 1945年3月上旬)は、『アンネの日記』の著者として知られるユダヤ系ドイツ人の少女である。
ドイツフランクフルト・アム・マインに生まれたが、反ユダヤ主義を掲げる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の政権掌握後、迫害から逃れるため、一家で故国ドイツを離れてオランダアムステルダムへ亡命した。しかし第二次世界大戦中、オランダがドイツ軍に占領されると、オランダでもユダヤ人狩りが行われ、1942年7月6日に一家は、父オットー・フランクの職場があったアムステルダムのプリンセンフラハト通り263番地の隠れ家で潜行生活に入ることを余儀なくされた(フランク一家の他にヘルマン・ファン・ペルス一家やフリッツ・プフェファーもこの隠れ家に入り、計8人のユダヤ人が隠れ家で暮らした)。ここでの生活は2年間に及び、その間、アンネは隠れ家での事を日記に書き続けた。1944年8月4日ナチス親衛隊(SS)に隠れ家を発見され、隠れ家住人は全員がナチス強制収容所へと移送された。アンネは姉のマルゴット・フランクとともにベルゲン・ベルゼン強制収容所へ移送された。同収容所の不衛生な環境に耐えぬくことはできず、チフスを罹患して15歳にしてその命を落とした。1945年3月上旬頃のことと見られている。
隠れ家には、アンネが付けていた日記が残されていた。オットーの会社の社員で隠れ家住人の生活を支援していたミープ・ヒースがこれを発見し、戦後まで保存した。8人の隠れ家住人の中でただ一人戦後まで生き延びたオットー・フランクはミープからこの日記を手渡された。オットーは娘アンネの戦争と差別のない世界になってほしいという思いを全世界に伝えるため、日記の出版を決意した。この日記は60以上の言語に翻訳され、2500万部を超える世界的ベストセラーになった〔ハイル(2003)、p.7〕〔黒川(2009)、p.5〕。
== 生涯 ==
父はユダヤ系ドイツ人のオットー・ハインリヒ・フランク。母は同じくユダヤ系ドイツ人のエーディト・フランク(旧姓ホーレンダー)。父オットーは銀行家だった〔ハイル(2003)、p.14〕。母エーディトはアーヘンの有名な資産家の娘であった〔〔リー(2002)、p.45〕。アンネは次女であり、3歳年長の姉にマルゴット・フランク(愛称マルゴー)がいた〔ハイル(2003)、p.15〕〔黒川(2009)、p.12〕〔早乙女(1984)、p.42〕〔ミュラー(1999)、p.41〕。
生後12日目にエーディトはアンネをフランクフルト郊外のマルバッハヴェーク307番地にあったフランク一家の暮らすアパートに連れ帰った〔リー(2002)、p.49〕〔ミュラー(1999)、p.47〕。フランク一家は中産階級のユダヤ人一家だが、ユダヤ教にも他の宗教にもあまり熱心な家庭ではなかった〔リー(2002)、p.59〕。1931年3月、フランク一家はガングホーファー通り24番地のアパートへ引っ越した〔早乙女(1984)、p.44〕〔ハイル(2003)、p.16〕〔ミュラー(1999)、p.55〕〔リー(2002)、p.58〕。しかしフランク一家の家業である銀行業は世界的な不況から立ち直れずに業績が悪化していた。フランク一家は一般のドイツ国民よりは経済水準は高かったものの、節約のためにもアパートを借りるのは止めることとなった。一家はのヨルダン通りにあるベートーベン広場に面したオットーの実家へ戻った〔ミュラー(1999)、p.70〕〔リー(2002)、p.60〕。ここは1901年にオットーの父ミヒャエルが購入した高級住宅で、ミヒャエルの死後はオットーの母アリーセが1人で切り盛りしていた〔ミュラー(1999)、p.40〕。とはいってもフランク一家の私生活はあまり変わらず、一家はよく旅行やショッピングに出かけていた〔リー(2002)、p.61〕。
しかしこの頃のドイツの政治は、反ユダヤ主義を掲げる国家社会主義ドイツ労働者党(以下ナチ党)が急速に伸長していた。1932年には同党が国会で最大議席を獲得し、その党首アドルフ・ヒトラーがいつ首相に任命されてもおかしくない状況になった。フランクフルトでも反ユダヤ主義デモを行う突撃隊隊員の姿がよく見られるようになった。1932年にオットーはエーディトと相談して、ドイツを離れる事を考えたという。しかし亡命先で生活の糧を得られる見込みがなく、断念せざるを得なかった〔ハイル(2003)、p.19〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「アンネ・フランク」の詳細全文を読む




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