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アレサンドロ・ペタッキ : ミニ英和和英辞書
アレサンドロ・ペタッキ
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


アレサンドロ・ペタッキ : ウィキペディア日本語版
アレサンドロ・ペタッキ

アレサンドロ・ペタッキ(Alessandro Petacchi、1974年1月3日-)はイタリアリグーリア州ラ・スペツィア生まれの自転車プロロードレース選手。1996年スクリーニョ・ブルーストームでプロデビュー。爆発的なスプリント力を持ち「アレ・ジェット (Ale-Jet)」の異名で呼ばれるスプリンター
ステージレースを中心に、数多くのレースで優勝を飾っている。ジロ・デ・イタリアでは2004年にポイント賞(マリア・ロッソ・パッショーネ)を獲得したほか、年間ステージ最多勝記録(9勝)も保持している。ツール・ド・フランスでも2010年にポイント賞(マイヨ・ヴェール)を獲得し、2005年にスプリント賞を獲得したブエルタ・ア・エスパーニャを含め、3大グランツール全てのポイント賞を獲得した。
== 略歴 ==
12歳の時、実父の影響で競技用自転車に乗り始め、まもなくレースに参加し始めるようになる(最初に参加したレースは4位であったと本人は語っている)。
プロデビューしてからしばらくはスプリンターとしての才能を自覚しておらず、 ファブリッツィオ・グイディのアシストを務めていた。
しかし に移籍した2000年ブエルタ・ア・エスパーニャでの2勝(第8、12)を含む9勝をあげ、2001年は5勝に留まるが、2002年は再びブエルタ・ア・エスパーニャでも勝利して年間12勝。徐々に才能を開花させていく。
2003年
*ジロ・デ・イタリアの第1ステージで勝利をあげると、その勢いのまま6勝(1、5、6、13、16、17の各ステージ) 。しかし難関山岳の第18ステージでタイムオーバー、ポイント賞ジャージ着用のまま無念のリタイアとなった。
*ツール・ド・フランス(2、3、5、6の各ステージ)で4勝、ブエルタ・ア・エスパーニャ(3、5、12、14、21の各ステージ)でも5勝をあげて、グランツールの年間最多ステージ優勝を記録する大活躍をみせ、トップスプリンターとしての地位を確立した。ただし、ツール・ド・フランスは第7ステージの山岳初日でリタイヤした。
2004年
*ジロ・デ・イタリアの全21ステージ中9ステージ(2、5、7、9、11、13、15、16、21の各ステージ)で優勝。圧倒的な成績で、初のポイント賞を獲得。
2005年
*スプリンターの憧れであるミラノ〜サンレモで優勝。
*ジロ・デ・イタリアでステージ4勝。
*ブエルタ・ア・エスパーニャではステージ5勝(3、4、8、12、21の各ステージ)に加え、ポイント賞も獲得し、年間を通して大活躍した。
2006年
*ファッサボルトロの解散に伴い、に移籍。
*同じく移籍してきたエリック・ツァベルをアシストに従え、ティレーノ〜アドリアティコでステージ優勝とポイント賞を獲得するなどしたが、ジロ・デ・イタリアの第3ステージで落車。膝の骨を割る大怪我を負ってしまう。
*8月に復帰はしたものの、それまでの力強いスプリントは影を潜めてしまい、ライバルたちの後塵を拝し続けることになる。
*そしてブエルタ・ア・エスパーニャの第15ステージ終了後、スプリントで負けた苛立ちからチームバスを殴りつけた勢いで右手を骨折してしまいリタイア。いいところを見せられないままシーズンを終了した。
2007年
*ミラノ~サンレモオスカル・フレイレに惨敗するなど不調が続いたが、ジロ・デ・イタリアの第3ステージで優勝したのを皮切りに、ステージ5勝とポイント賞。見事な復活劇となったはずだった(後日、当該区間優勝及びポイント賞記録は剥奪される)。
*しかし第11ステージのドーピング検査で陽性となり、持病の気管支喘息の治療薬で筋肉増強作用のあるサルブタモールの過剰摂取が判明。本人は偶然ということで無罪を訴えたが、CONI(イタリア五輪委員会)が1年の出場停止処分を求めたのに対して、FCI(イタリア自転車連盟)は故意の摂取ではないので処分は不要と主張して対立。結局、正式な処分は出ないまま、2か月間レースへの出場を見合わせることになり、ツール・ド・フランスへの出場も直前になって取り消す羽目になった。〔Sidelined Petacchi facing 12 month suspension - cyclingnews.com・2007年7月5日〕
*しかし復帰後の ブエルタ・ア・エスパーニャでは2勝し、シーズン終盤のクラシックレースであるパリ〜ツールも制してシーズンを終えたが、この後FCIの対応を不満としたCONIはCAS(スポーツ仲裁裁判所)へ提訴。年をまたぐ事態になってしまった。
2008年
*パレンシア一周でのステージ優勝など春先から活躍していたが、ジロ・デ・イタリアは気管支炎の悪化で出場をキャンセル。
*さらに5月7日にスポーツ仲裁裁判所(CAS)から2008年8月31日までレースへの出場停止の判決が下され、2007年のジロでの5つのステージ優勝やポイント賞は剥奪。さらに2007年10月31日以降獲得した各種タイトルも剥奪されることが決定。この判決を受けて16日にはミルラムはペタッキとの契約を解除し解雇した〔ペタッキ 薬物違反によりミルラムから解雇される - AFPBB News〕。
*処分期間が終わるのに合わせて同年9月から、ダニーロ・ディルーカ擁するプロフェッショナルコンチネンタルチーム・LPRブレーキと2年半の契約を結んだ。
2009年ジロ・デ・イタリアでは第2、第3ステージを連勝し、完全復活を印象付けた。
2010年、ランプレ・ファルネーゼ=ヴィーニ(現 ランプレ - ISD)に移籍。
*ジロ・デ・イタリアでは泥だらけのダート区間で気管支喘息を悪化させ第7ステージ後に棄権。
*久々の出場となったツール・ド・フランスでは第1、第4ステージにて勝利を飾り、従来苦手としていた山岳ステージも走りきってポイント賞マイヨ・ヴェールを獲得した。
*ブエルタ・ア・エスパーニャ第7ステージ勝利。
2011年
*カタルーニャ一周 区間1勝(第2)
*ジロ・デ・イタリア 区間1勝(第2)
2013年
* 4月23日、「200勝を達成して、自分の人生は格別なものになった。別の次元のことを見つけて、家族との時間も増やしたい」と語り、に現役引退を表明。しかし、引退表明直後からマーク・カヴェンディッシュのリードアウト役としてオメガファーマ・クイックステップへ移籍する、という情報が流れ、オメガファーマ・クイックステップGMのパトリック・ルフェーヴルもこれを認めていた〔“アレジェット”ペタッキがオメガファーマに加入 カヴの発射台を担う - シクロワイアード 2013年8月31日付〕。
* 8月1日、カヴェンディッシュのリードアウト役としてオメガファーマ・クイックステップで現役復帰することが発表された〔。
2014年
* グランプリ・ピノ・チェラミ優勝
* スヘルデプレイス 4位
2015年サウスイースト・プロサイクリング・チームに移籍。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「アレサンドロ・ペタッキ」の詳細全文を読む




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