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アトランタ・ファルコンズ : ミニ英和和英辞書
アトランタ・ファルコンズ[らん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ラン : [らん]
 【名詞】 1. (1) run 2. (2) LAN (local area network) 3. (P), (n) (1) run/(2) LAN (local area network)

アトランタ・ファルコンズ : ウィキペディア日本語版
アトランタ・ファルコンズ[らん]

アトランタ・ファルコンズ(Atlanta Falcons)は、アメリカ合衆国ジョージア州アトランタに本拠を置くNFLチーム。現在NFC南地区に所属している。1966年、エクスパンション・チームとしてNFLに加盟した。2001年まではNFC西地区に所属していた。これまでに地区優勝3回、第33回スーパーボウルに出場したがデンバー・ブロンコスに敗れた。
== 歴史 ==

=== 1970年代まで ===
1965年6月30日、NFLコミッショナーのピート・ロゼールからランキン・スミスにオーナーシップが与えられチームが創設された。同年11月27日のドラフト1巡目全体1位でテキサス大学出身のLBトミー・ノービスを指名した。このドラフトでは1巡目から5巡目まで最初と最後に指名権が与えられた。ノービスはAFLドラフトでも1巡目全体5位でヒューストン・オイラーズに指名されたがファルコンズに入団した。
1966年、8月1日に最初のプレシーズンゲームがフィラデルフィア・イーグルスとの間で行われた。レギュラーシーズン開幕後9連敗したが、11月20日、ロードでニューヨーク・ジャイアンツを破りシーズン初勝利をあげた。最後の4試合で2勝をあげて3勝11敗に終わった〔。ノービスはルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得、プロボウルにも選出された。
1967年は1勝12敗1分に終わった。トミー・ノービスが2年連続プロボウルに選ばれた〔。
1968年、開幕から3連敗したところでノーム・ヘッカーヘッドコーチは解任されノーム・バン・ブルックリンが後任となった。ヘッドコーチ交代後2試合目のニューヨーク・ジャイアンツ戦でシーズン初勝利をあげたが、その後1勝しかできず2勝12敗に終わった。クロード・ハンフリー最優秀新人守備選手に選ばれた〔。
1969年、11月16日のシカゴ・ベアーズ戦では控えQBランディー・ジョンソンが4TDパスを投げて48-31で勝利、週間最優秀攻撃選手に選ばれた。12月7日の地元での試合、FBハーモン・ウェイジがTDラン、TDレシーブ、TDパスをあげる活躍を見せて45-17でニューオーリンズ・セインツを破った。この年チームは創設以来最高の6勝8敗の成績をあげた。プロボウルジム・バトラーボブ・ベリーグレッグ・ブレジナボブ・エタージョージ・クンツジム・ミッチェルケン・リーブスの7名が選ばれた〔。
1960年代の4シーズンを通してチームはわずか12勝しかあげられなかった。
1970年、9月27日のグリーンベイ・パッカーズ戦でボブ・ベリーがチーム初の300ヤードを投げたQBとなった。10月4日、ジム・バトラーがチーム記録となる127ヤードを走った。11月30日、チームはマンデーナイトフットボールに初登場を果たしマイアミ・ドルフィンズと対戦した。この年チームは開幕から6試合で3勝をあげたが4勝8敗2分に終わった。プロボウルにハンフリー、クンツ、ノービスが選ばれている〔。
1971年、この年ノーム・バン・ブルックリンヘッドコーチがプロフットボール殿堂入りを果たした。最終週に、ニューオーリンズ・セインツを破り、7勝6敗1分けとチーム初のシーズン勝ち越しを遂げた〔〔。
1972年、ドラフトハイズマン賞を受賞したパット・サリバンを獲得した。10月1日、デイブ・ハンプトンがチーム記録となる161ヤードを走ってチーム創設以来初めてロサンゼルス・ラムズを破った〔。2試合を残して7勝5敗の成績を収めていたが、サンフランシスコ・フォーティナイナーズに0-20と完封負け、最終週のカンザスシティ・チーフス戦にも負けて7勝7敗に終わった。RBデイブ・ハンプトンはいったんは1000ヤードを超えたが、続くプレーで6ヤードをロスしてしまい995ヤードでシーズンを終えた〔。
1973年、開幕戦でニューオーリンズ・セインツを62-7で破ったが、続く3試合で合計15得点しかあげられず3連敗した。その後7連勝したが最後の3試合中2試合に敗れて9勝5敗でプレーオフを逃した。デイブ・ハンプトンはこの年997ヤードのランで、2年連続あと一歩のところで1000ヤードラッシャーとなれなかった〔。この年ニック・マイク=メイヤージョン・ズック、クンツがプロボウルに選ばれた〔。
1974年、2勝6敗となったところで、ノーム・バン・ブルックリンヘッドコーチ(GMも兼任していた)は解任され、ディフェンスコーディネーターのマリオン・キャンベルが後任となったが、ヘッドコーチ交代後も5連敗し、最終週にようやく勝利し、3勝11敗に終わった。ハンフリーとジェフ・ヴァン・ノートがプロボウルに選ばれた〔。
1975年、ジョージ・クンツをドラフト全体1位指名権と引き換えにボルチモア・コルツにトレードした。ドラフトでQBスティーブ・バートコウスキーを獲得した〔。2月26日、それまでにグリーンベイ・パッカーズマイアミ・ドルフィンズを強豪にしたパット・ペプラーがGMに就任した。この年チームは4勝10敗に終わった。最終週に61ヤードを走ったデイブ・ハンプトンが1000ヤードラッシャーとなった。ヴァン・ノートとPジョン・ジェームズがプロボウルに選ばれた〔。
1976年、キャンベルヘッドコーチがシーズン途中に解任され、パット・ペプラーが暫定ヘッドコーチとなった。チームは4勝10敗に終わった。ジョン・ジェームズは2年連続プロボウルに選ばれた〔。2年目のQBバートコウスキーは、2TD、9INT、キム・マッキルケンも2TD、10INTと散々だった〔。
1977年、ワシントン・レッドスキンズダラス・カウボーイズでQBを務めたエディ・ルバロンがGMに、ランキン・スミス・ジュニアが球団社長に、ロサンゼルス・ラムズのアシスタントコーチ、リーマン・ベネットがヘッドコーチに就任した。14試合でわずか129失点という近代フットボールとなってからの記録を樹立、7勝7敗でシーズンを終えた。強力なディフェンスは「The Gritz Blitz」と呼ばれた。ジョン・ジェームズ、ハンフリー、ローランド・ローレンスがプロボウルに選ばれた〔。
1978年にチーム創設13年目でプレーオフ初出場を果たしワイルドカードプレーオフでフィラデルフィア・イーグルスに勝利した後、ディビジョナルプレーオフでダラス・カウボーイズと対戦し相手エースQBのロジャー・ストーバックを負傷退場に追い込み試合終盤リードしたが控えQBダニー・ホワイトに逆転を許し敗れた〔。
1978年、2勝4敗から5連勝し7勝4敗、最後の5試合で3敗したものの9勝7敗でプレーオフ初出場を果たした。敵地でフィラデルフィア・イーグルスを14-13で破ったが、翌週ダラス・カウボーイズ戦では前半20-13とリードしたものの20-27と逆転負けし、シーズンを終えた〔。
1979年、9月2日のニューオーリンズ・セインツとの開幕戦で、新人RBのウィリアム・アンドリュースが167ヤードを走り、延長の末40-34で勝利した。彼はチーム記録となる1,023ヤードを走った。またQBバートコウスキーは自身初の2,000ヤードを超える2,505ヤードを投げた。しかしディフェンスが388失点を許し、6勝10敗に終わった〔。ヴァン・ノートがプロボウルに選ばれた〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「アトランタ・ファルコンズ」の詳細全文を読む




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