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アクタン・ゼロ : ウィキペディア日本語版
アクタン・ゼロ

アクタン・ゼロ(、あるいは古賀のゼロ〈〉、アリューシャン・ゼロ〈〉とも呼ばれる)は、第二次世界大戦中にアラスカ準州アリューシャン列島アクタン島に不時着した三菱零式艦上戦闘機二一型(製造番号4593)のアメリカ軍における呼称。1942年7月にほとんど無傷のままアメリカ軍に回収され、大戦中アメリカ軍が鹵獲した初めての零戦となった〔Rearden, "Enemy".〕。回収後、機体は修理され、アメリカ軍テストパイロットによってテスト飛行が行われた。結果、アメリカ軍は大戦を通して大日本帝国海軍の主力戦闘機であった零戦に対抗する戦術を研究することができた。
アクタン・ゼロは「アメリカにとってもっとも価値あるといってよい鹵獲物〔Rearden, "Fighter", x〕」であり、「おそらく太平洋戦争における最高の鹵獲物の一つ」と言われた。日本の元軍人・自衛官であり歴史家の奥宮正武は、アクタン・ゼロの鹵獲は「〔日本にとって〕ミッドウェー海戦の敗北に劣らないほど深刻」であり、「〔日本の〕最終的な降伏を早めることに多大な影響を及ぼした」と述べた〔Okumiya, 160–163〕。その一方で、ジョン・ランドストームなどは「伝説の戦闘機にうち勝つための戦術を考案するには古賀のゼロの分析が必要だった」という主張に疑問を呈している。
アクタン・ゼロは1945年に訓練中の事故により失われた。その破片はいくつかのアメリカの博物館に保管されている。
== 三菱零式艦上戦闘機 ==


1939年に初飛行した零戦は、非常に機動性に優れた軽戦闘機であり、その格闘性能および航続性能は当時世界のあらゆる戦闘機よりも優れていた〔Oxford guide, "Fighters" entry, pages 278–279. The Zero's supremacy in flight range is given in table 2, sourced to W. Green, Warplanes of the Second World War, 1961. Maneuverability is described as "excellent ... Of the early Allied fighters, only the F4F Wildcat could oppose it on anything like equal terms."〕。しかし、軽量化のために防御力・耐弾性を犠牲にし、防弾鋼板や防漏式燃料タンクを備えていなかった。アメリカ人作家ジム・リアデンによれば、「零戦はおそらく第二次世界大戦において、被弾させればもっとも撃墜しやすい戦闘機だった。日本はアメリカ軍戦闘機の質の向上と数の増加に立ち向かうために必要なだけの数のより改良された戦闘機を製造する準備をしていなかったか、あるいはそれができなかった〔Rearden, "Fighter", 10.〕〔Rearden, "Fighter", 13.〕」。結果、零戦は大戦を通して日本海軍の主力戦闘機であり続けた。

1940年、フライング・タイガースの指揮官クレア・リー・シェンノートは、零戦の性能についてのレポートを提出したが、アメリカ戦争省の分析官はそれを「実にばかげている」として認めず、空気力学的に不可能であるとの結論を下した〔Handel, 139.〕。戦争初期、零戦は交戦したあらゆる敵機より勝っており、アメリカのエース・パイロットウィリアム・N.レオナードによれば、「これら初期の交戦から、そして我々自身が、〔ゼロと〕ドッグファイトすることの愚かさを教えられた〔Rearden, "Fighter", 14.〕。」
真珠湾攻撃において9機の零戦が撃墜された〔Rearden, "Fighter", 28.〕。これらの残骸から、連合軍は零戦が防弾鋼板や防漏式燃料タンクを装備していないことがわかったが、その他にはほとんどなにも知ることができず〔Rearden, "Fighter", 29.〕、零戦のそれと闘うための戦術や機器を考案するために重要な飛行性能の特性は謎のままだった。
アクタン・ゼロの回収以前、連合軍は他で墜落した3機の零戦から技術情報を入手する機会があった。一機目(製造番号5349、豊島一(とよしまはじめ)一飛兵搭乗)は、ポート・ダーウィン空襲の後メルヴィル島に墜落した。機体は激しく損傷し、豊島は太平洋戦争においてオーストラリアが初めて捕縛した戦争捕虜となった。二機目は前田芳光(まえだよしみつ)三飛曹が搭乗し、ニューギニアロドニー岬付近で墜落した。機体の回収チームが派遣されたが、翼を切り離すときに誤って翼桁を切断してしまい、飛行不能となった〔Rearden, "Fighter", 30.〕。三機目は中国から来た。シェンノートの下にいたゲルハルト・ノイマンは零戦を稼働可能な状態に復元することができた。彼は、中国領内に着陸し、一部は無傷なままの鹵獲された零戦(製造番号3372)に、回収された他の零戦の部品を使用して修理を行った。しかし、悪状況とアメリカへの輸送に長い時間を要したため、アメリカに到着したのはアクタン・ゼロがテストのためにアメリカに到着した後のことだった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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