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と号部隊 : ミニ英和和英辞書
と号部隊[とごうぶたい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ごう]
  1. (n,n-suf) (1) number 2. issue 3. (2) sobriquet 4. pen-name 
部隊 : [ぶたい]
 【名詞】 1. force 2. unit 3. corps 4. echelon 5. element 
: [たい]
 【名詞】 1. party 2. company 3. body (of troops) 4. corps

と号部隊 : ウィキペディア日本語版
と号部隊[とごうぶたい]

と号部隊(とごうぶたい)は、大日本帝国陸軍航空機による艦船に対する特別攻撃隊である。「と」とは特攻隊の略号である〔戦史叢書36 沖縄・台湾・硫黄島方面陸軍航空作戦 307頁〕。
特攻全般については「特別攻撃隊」を参照。
== 歴史 ==

=== 万朶隊・富嶽隊 ===
1944年初頭、陸軍中央で組織的な航空特攻の検討が始まった。主に艦船に対する体当たりについてで、春には機材、研究にも着手した〔戦史叢書48 比島捷号陸軍航空作戦344頁〕。1944年3月28日、陸軍航空本部には特攻反対の意見が多かったことから、内閣総理大臣陸軍大臣参謀総長東條英機大将航空総監兼航空本部長の安田武雄中将を更迭、後宮淳大将を後任に据えた〔秦郁彦『昭和史の謎を追う下』文春文庫507頁〕。1944年春、中央で航空関係者が特攻の必要に関して意見を一致した。当初は精鋭と器材で編成し一挙に敵戦意をそぐことを重視した。そこでまず九九式双軽爆撃機と、四式重爆撃機「飛龍」を改修することになり、中央で2隊の編成準備を進めた。軍政の不振を兵の生命で補う部隊を上奏し正規部隊として天皇大元帥)、中央の名でやるのはふさわしくないとして現場指揮官の臨機に定めた部隊として要員、機材の増加配属だけを陸軍大臣の部署で行うことにした〔戦史叢書48 比島捷号陸軍航空作戦344頁〕。また同年5月、体当たり爆弾桜弾の研究が第3陸軍航空技術研究所で開始される〔戦史叢書87陸軍航空兵器の開発・生産・補給459-460頁〕。1944年7月11日第4航空技術研究所長正木博少将は「捨て身戦法に依る艦船攻撃の考案」を起案し対艦船特攻の方法を研究した〔戦史叢書87陸軍航空兵器の開発・生産・補給455-456頁〕。
1944年7月、鉾田教導飛行師団に九九双軽装備、浜松教導飛行師団に四式重爆「飛龍」装備の特攻隊を編成する内示が出た。8月中旬からは九九双軽と四式重爆「飛龍」の体当たり機への改修が秘かに進められた〔戦史叢書48 比島捷号陸軍航空作戦345頁、『特攻隊振武寮』p.55〕。9月28日、大本営陸軍部の関係幕僚による会議で「もはや航空特攻以外に戦局打開の道なし、航空本部は速やかに特攻隊を編成して特攻に踏み切るべし」との結論により、参謀本部から航空本部に航空特攻に関する大本営指示が発せられる〔『特攻隊振武寮』p.57〕。
陸軍による最初の航空特攻は、鉾田教導飛行師団の万朶隊と浜松教導飛行師団の富嶽隊によって行われた。通常の編成は航空本部から電文で命令されるが、命令は天皇を介するため、任命電報が送れず、菅原道大中将が編成担当者に任務を与え派遣した〔柳田邦男『同時代ノンフィクション選集7巻戦死と自死と』文芸春秋330頁〕。富嶽隊万朶隊は、梅津美治郎参謀総長が藤田東湖の「正気の歌」から命名した〔戦史叢書48比島捷号陸軍航空作戦347頁〕。富嶽隊の選出方法は「志願を募ればみんな志願するので指名すればそれでいい」というものであった。万朶隊は飛行隊長が面接を行い志願を募った〔戦史叢書48比島捷号陸軍航空作戦346-347頁〕。
万朶隊は、1944年10月4日航空総監部から鉾田教導飛行師団に九九双軽装備の特攻隊編成の連絡があった〔戦史叢書48 比島捷号陸軍航空作戦345頁〕。10月13日、師団今西六郎中将は航空総監と連絡し特攻部隊を編成の打ち合わせをした。中旬に九九双軽の特攻改修機が到着した〔戦史叢書48 比島捷号陸軍航空作戦346頁〕。10月20日、参謀本部から編成命令が下され、21日岩本益臣大尉以下16名が決定した〔戦史叢書48 比島捷号陸軍航空作戦346頁、『特攻隊振武寮』p.69〕。22日航空総監代理により総監訓示が行われ、今西師団長も訓示を行い、鉾田飛行場を出発。立川に寄った際に、竹下福壽少佐により、爆弾の安全装置離脱および緊急時の爆弾投下を可能にする改修が認められた。26日、九九双軽の特攻隊はフィリピンのリパに到着。29日万朶隊と命名された〔戦史叢書48 比島捷号陸軍航空作戦347-348頁〕。
富嶽隊は、浜松教導飛行師団長川上淸志少将は特攻隊編成の内示を受けると、同師団の第1教導飛行隊を母隊として編成し1944年10月24日から特別任務要員として南方へ派遣した。全員とも四式重爆の経験は豊富だった。26日、参謀総長代理菅原道大航空総監が臨席し出陣式が行われ、富嶽隊と命名された〔戦史叢書48 比島捷号陸軍航空作戦347頁〕。
万朶隊は初出撃を待っていたが、11月5日、第4航空軍の命令で作戦打ち合わせに向かった隊長岩本大尉以下5名が米軍戦闘機と遭遇し戦死。富嶽隊はフィリピンに到着すると11月7日早朝、初出撃した。しかしこの出撃は空振りに終わり、山本中尉機が未帰還。富嶽隊は13日に、隊長西尾常三郎少佐以下6名が米機動部隊に突入して戦死した。残った富嶽隊、万朶隊も順次出撃していった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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