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1899年ケンタッキー州知事選挙 : ミニ英和和英辞書
1899年ケンタッキー州知事選挙[1899ねんけんたっきーしゅうちじせんきょ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ねん, とし]
  1. (n-adv,n) year 2. age 
ケンタッキー : [けんたっきー]
 【名詞】 1. Kentucky 2. (n) Kentucky
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [す, しゅう]
 (n) sandbank
知事 : [ちじ]
 【名詞】 1. prefectural governor 
: [こと]
 【名詞】 1. thing 2. matter 3. fact 4. circumstances 5. business 6. reason 7. experience 
: [せん]
 【名詞】 1. (1) selection 2. choice 3. election 4. (2) compilation 5. editing 
選挙 : [せんきょ]
  1. (n,vs) election 

1899年ケンタッキー州知事選挙 : ウィキペディア日本語版
1899年ケンタッキー州知事選挙[1899ねんけんたっきーしゅうちじせんきょ]

1899年ケンタッキー州知事選挙()は、第33代ケンタッキー州知事を選ぶために1899年11月7日に、アメリカ合衆国ケンタッキー州で投票された選挙である。アメリカ合衆国では唯一現職の州知事が暗殺されるという混乱を呼んだ選挙として記憶されている。
1899年まで現職にあった共和党知事ウィリアム・O・ブラッドリーは、ケンタッキー州憲法の規定で再選を求める資格が無かった。共和党は州検事総長のウィリアム・S・テイラーを公認候補に指名したが、ブラッドリーは別の候補を推したかったこともあり、選挙戦ではテイラーをあまり応援しなかった。民主党ルイビルの音楽ホールで指名大会を開催したが、論争と混乱が生まれた挙げ句にケンタッキー州上院議員のウィリアム・ゴーベルを公認候補に指名した。しかし音楽ホールの大会でゴーベルの採った政治戦術に怒り、党内で不満を抱いた派閥が自らを正直選挙民主党と称し、後に独自の指名大会を開いて、元州知事のジョン・Y・ブラウンを候補に指名した。
投票の結果はテイラーが 193,714 票を獲得して当選となり、ゴーベルは 191,331 票、ブラウンは 12,040 票だった。ゴーベルが民主党を纏めることができておれば、当選したはずだった。この開票結果については、選挙違反があったという根拠で異議申し立てが出た。ゴーベルが成立させた選挙法で創設され、ゴーベルの息の掛かった委員で占められた州選挙管理委員会が、テイラーの当選を追認するという意外な結果になった。
ケンタッキー州議会で多数を占める民主党はこの結果に怒り、選挙違反を調査する審査委員会を創設した。共和党支持者の多い州東部からは武装までした市民が州都に入り込み、選挙結果を民主党に盗まれないよう保護しようとした。審査委員会が報告書を提出する前の1900年1月30日、ゴーベルが州会議事堂に入ろうとしているときに、暗殺者に狙撃された。ゴーベルが近くのホテルで傷の手当てを受けている間に、特別委員会はテイラーに投じられた票の多くを無効にし、ゴーベルを当選とすることを推薦する報告書を州議会に提出した。この報告書が受領され、テイラーが解任され、1月31日にゴーベルが宣誓して州知事に就任した。ゴーベルはその3日後の2月3日に死んだ。
副知事に就任していたJ・C・W・ベッカムが州知事に昇格し、ベッカムとテイラーの間で州知事の座を巡って長い法廷闘争が始まった。この裁判ではベッカムが勝利し、テイラーはゴーベル暗殺への関与を問われないためにインディアナ州に逃亡した。ゴーベル暗殺では合計16人が告発された。このうち5人が裁判に掛けられ、2人は無罪になった。残り3人のそれぞれが異例な形で有罪となったが、その後の州知事から恩赦を受けた。ゴーベル暗殺の真犯人は不明のままである。
== 背景 ==
1895年ケンタッキー州知事選挙ではケンタッキー州始まって以来となる共和党知事ウィリアム・O・ブラッドリーが当選した。ブラッドリーは、自由銀の問題に関する民主党内の分裂に乗じ、また強力な第3の政党ポピュリスト党の候補者トマス・S・ペティットが出馬したことも利用し、投票結果では9,000票に満たない差だったが当選した。この選挙はその後30年間近く続くケンタッキー州での二大政党競合時代の始まりになった〔Harrison in ''A New History of Kentucky'', pp. 267–268〕。
ブラッドリーにとって強力な民主党の敵が、ケンタッキー州上院で力を得つつあった。ケントン郡出身のウィリアム・ゴーベルが民主党の新青年集団の指導者となり、特にルイビル・アンド・ナッシュビル鉄道のような大会社の敵であり、労働者の見方と見られていた。ゴーベルはよそよしく計算高いと見られていた。未婚であり、男女とも親友が少なく、政治的権力によってのみ動かされていた〔Harrison in ''A New History of Kentucky'', pp. 268–269〕。
ゴーベルは1898年議会会期で上院議長代行に選ばれた。1898年2月1日、後にゴーベル選挙法と呼ばれる法案を提出した〔Kleber, "Goebel Election Law", p. 378〕。この法では州議会が指名する委員で構成される州選挙管理委員会を創設し、委員会は州内全郡の選挙委員を選択し、論議のある選挙結果については裁定を下せる権限があった〔。州議会は圧倒的に民主党が優勢だったので、この法はあからさまに党利優先であり、ゴーベルの我田引水だと攻撃された。民主党員の中にも反対する者がいた〔Harrison in ''A New History of Kentucky'', p. 270〕。それでもゴーベルは党内で十分な支持を確保し、ブラッドリーの拒否権を乗り越えて法制化に成功した〔。ゴーベルは党の指導者として選挙管理委員会の委員を基本的に自分の都合で選んだ〔Hughes, p. 7〕。3人の信頼できる民主党員、すなわち、元ケンタッキー州控訴裁判所首席判事W・S・プライア、デイビース郡選出の元アメリカ合衆国下院議員W・T・エリス、元州鉄道委員会委員長C・B・ポインツだった〔。共和党はこの法に対して試訴を行ってみたが、ケンタッキー州控訴裁判所はそれを合憲と判断した〔Hughes, p. 8〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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