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笠信太郎 : ウィキペディア日本語版
笠信太郎[りゅう しんたろう]
笠 信太郎(りゅう しんたろう、1900年12月11日 - 1967年12月4日)は、日本のジャーナリスト朝日新聞論説主幹。
== 経歴 ==
化粧品店を営む笠与平・峯子の長男として、福岡市上土居町(現・博多区店屋町)に生まれる。幼名は与三郎。福岡県立中学修猷館(現・福岡県立修猷館高等学校)を経て、1925年東京商科大学(現・一橋大学)本科を卒業。1926年同研究科を退学する。
1928年4月大原社会問題研究所研究助手、1931年同研究員を経て、大内兵衛朝日新聞社主筆で中学・大学の先輩でもある緒方竹虎に推薦して、1936年1月朝日新聞社に入社し、同年9月論説委員となる。同じく朝日新聞社論説委員の佐々弘雄や記者の尾崎秀実らとともに近衛文麿のブレーン組織「昭和研究会」に参加してその中心メンバーの一人となり、近衛を取り巻く朝食会(水曜会)のメンバーともなった。
昭和研究会には稲葉秀三や勝間田清一ら企画院の革新官僚とソ連スパイ尾崎秀実をはじめとする転向左翼ら所謂「国体の衣を着けたる共産主義者(近衛上奏文)が結集しており、彼らはマルクス主義に依拠して戦争を利用する上からの国内革新政策の理念的裏付けを行い、国家総動員法の発動を推進し、近衛新体制生みの親として大政翼賛会創設の推進力となった〔大東亜戦争とスターリンの謀略-戦争と共産主義(三田村武夫著、自由選書、1950年初版、1987年復刊)46頁、284頁「企画院事件の記録」〕。
笠は昭和研究会の東亜政治研究会委員、東亜経済ブロック研究会委員、文化問題研究会委員、政治動向研究会委員、経済情勢研究会委員を務め〔昭和研究会(昭和同人会編著、経済往来社、1968年)巻末付属資料37~39頁、昭和研究会名簿(昭和14年2月現在)。〕、1939年12月に笠が出版した『日本経済の再編成』(中央公論社)は、国家総動員法の広汎な発動により日本経済を自由主義的市場経済から公益優先主義的計画経済に移行させる第二次近衛内閣の経済新体制の理論的支柱となった。
笠は、日本経済の再編成の中で、第三次近衛声明後の我が国の軍事行動は、「治安工作と並行して抗日勢力の徹底的破砕を目指して進められねばならぬ」と主張し、企業が利潤確保の為やむを得ず闇市場に物資を流し闇価格を高騰させ或いは商品の品質や労働者の待遇条件を落とすこと等、政府の物資統制や戦時インフレ抑止政策が発生させる様々な弊害の除去に藉口して、物資のみならず企業の利潤および経営にまで統制の範囲を拡大させる必要性を説いて国家総動員法の発動を推進し、また『中央公論』昭和十四年十一月号「事変処理と欧州大戦」という座談会(出席者は、笠信太郎、和田耕作、平貞蔵、牛場信彦、西園寺公一、聽濤克己、角田順、後藤勇)の中では、公然と自由経済の復活と複数政党政治と言論の自由を否定した〔大東亜戦争とスターリンの謀略-戦争と共産主義263頁。〕。
1940年6月から9月にかけて笠は、小川平吉のブレーンであった経済学博士の山本勝市が国民精神文化研究所機関紙上に発表した「笠信太郎氏日本経済の再編成批判」によって完膚なきまでに反駁糾弾され〔日本経済の再編成批判 (山本勝市著/日本工業倶楽部調査課/1940年12月発行、国立国会図書館デジタルコレクション公開資料)参照。〕、同年10月ヨーロッパ特派員としてドイツ駐在を発令され渡欧するが、戦乱のため帰社の見通しが立たず、東京本社欧米部ヨーロッパ特派員として滞欧を続けることになり、1943年10月スイスへ移動、ベルンに滞在。その地に滞在していたアメリカの情報機関OSS(Office of Strategic Services:アメリカ戦略情報局、CIAの前身)の欧州総局長であったアレン・ダレス(後のCIA長官)を仲介とした、対米和平工作に協力している。和平工作時、スイスから和平締結を求める東郷茂徳外相宛て電報を緒方竹虎(当時内閣顧問)に送付(結果的には未達)したことで、緒方や近衛文麿など、政権中枢とのコネクションを有しているものと米国側に把握されていた〔「『スイス終戦工作』空白期間の謎 2 ダレスは何をしていたか」有馬哲夫(新潮45 2014年9月号)〕。
戦後は1948年2月に帰社。同年5月論説委員、同年12月東京本社論説主幹、1949年12月朝日新聞論説主幹、1951年11月取締役・論説主幹、1956年12月常務取締役・論説主幹となり、1962年12月に辞任するまで14年間にわたって論説主幹を務めた。
この時期の朝日新聞社の経営陣は、社主村山長挙1960年6月に社長に復帰するまで社長不在であり(村山は1951年11月から1960年6月まで会長)、代表取締役専務取締役信夫韓一郎、常務取締役・東京本社業務局長の永井大三と笠のトロイカ体制を取っていた。信夫には1949年12月に東京本社編集局長に就任するまで東京での勤務経験がなく、東京の政財界に暗かったため、論説主幹の笠が対外的に朝日を代表する「顔」だった。しかし村山社主家との確執から、まず1960年6月に信夫が、続いて1962年に笠が辞任し(村山長挙の社長復帰翌日付で信夫が代表取締役専務取締役辞任)、1963年12月に村山家が永井を解任したことから村山事件となった。なお、笠の辞任は公式には「健康上の理由」となっている(河谷文夫「記者風伝」)。
1967年12月4日、心筋梗塞のため死去。66歳。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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