|
笑福亭 鶴蔵(しょうふくてい つるぞう、生没年不詳・明治中期頃の生まれ - 昭和20年代後期没)は、上方噺家。本名は神谷 乙也。 最初は1912年の16歳頃に4代目笑福亭松鶴の門で鶴吉を名乗った。後に鶴蔵と改めた。 最初は落語を演じていたが後に上方落語が凋落の一途をたどる中新派の俳優に転じた、しばらくして寄席に復帰し橘ノ一圓と組んで軽口に転じた。27歳の頃に上京した。寄席に出る傍ら舞台の脚本を書いたり、演出の勉強などをした。1929年頃大阪に戻り落語芝居に民謡を加えた和風ミュージカルのようなことも始めた。女優も加えた喜劇民謡座の座長に納まった。戦争末期に廃座し、吉本で文芸部員を務めた。戦後は5代目笑福亭松鶴の「楽語荘」の書記のようなことをしていた。昭和25年頃は健在だったがその後は不明。 得意ネタは「阿弥陀池」「浮世床」等を得意した。 筆が達者で5代目笑福亭松鶴の『噺家転鬼簿』に最後部にこの鶴蔵の筆がある。他にも5代目松鶴の思い出を綴った『噺家五十年』も、鶴蔵の口述を筆記した物である。 ==出典== *諸芸懇話会、大阪芸能懇話会共編『古今東西落語家事典』平凡社、ISBN 458212612X *古今東西噺家紳士録 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「笑福亭鶴蔵」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|