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智ノ花 伸哉(とものはな しんや、1964年6月23日 - )は、熊本県八代市出身で立浪部屋に所属した大相撲力士。最高位は東小結(1994年1月場所)。現役時代の体格は175cm、117kg。現在は、年寄・玉垣。本名は成松 伸哉(なりまつ しんや)。愛称は「先生」「成松先生」、趣味は映画鑑賞、ゴルフ。血液型はA型。 == 来歴 == 幼少時に両親が離婚し、叔父夫婦の援助を受けながら育つ。 叔父が法政大学の相撲部出身であったため相撲を始め、日本大学相撲部では全国学生相撲選手権大会を始めとする数々の大会で活躍し、4年生の時には主将を務めた。 大学卒業後は、山口県の中学校や高校で保健体育の教諭として勤めながらアマチュア相撲で活躍し、1989年にはアマチュア横綱のタイトルも獲得している。日本大学の後輩である舞の海の活躍に触発され、大津高校在職中に大相撲入門を決意した。 1992年3月場所、やはり日大の後輩である大翔鳳がいた立浪部屋から幕下付出で初土俵。27歳での初土俵は年6場所制になってから最高齢であり、藤ノ川が年寄・立川を襲名した年齢をも越えたことや妻子持ちでの初土俵も話題になった(同年中に入門資格が20歳未満、幕下付出資格者は23歳未満と改正されたが、年末には23歳未満、幕下付出資格者は25歳未満に緩和)。当時のその年齢と妻子持ちの高校教員であることから入門を決意した際他のどの部屋も冷ややかな目で見ていたが、唯一立浪部屋は歓迎していたのでこれが入門の決め手となった。兄弟子の大翔山が旧藤島部屋(現・貴乃花部屋)への入門を突然翻意して立浪部屋へ入門したことが当時の立浪部屋に幕下付出力士が集まるきっかけとなったことから智ノ花も旧藤島勢から立浪勢の1人として憎悪され、貴闘力は特に本場所の土俵で智ノ花に対して手厳しい相撲を取ったという。 プロでの経験不足の心配をよそに順調に出世し、入門から4場所目で幕下優勝して十両昇進、9場所目で幕内に上がり11場所連続で勝ち越し、12場所目の1994年1月場所では新小結に昇進した(初日に曙と対戦、取り直しの末惜敗した。この曙との一戦が自身思い出の一番という)。これは、幕下付出からの記録では横綱・輪島を抜くスピード三役昇進である。しかし、同場所では大敗を喫して1場所で平幕に陥落し、三役経験はこれが最初で最後となった。 当時若貴ブームが呼び水となって訪れていた大相撲黄金時代に上手く乗ることができたこともあり、智ノ花の取組の時は視聴率が上昇し、他にもニュース番組(FNNスーパータイムなど)で単独特集が組まれるほどの人気を誇った。しかし、これを境に年齢による衰え・怪我や技を研究されたことにより低迷し、幕内下位や十両で現役を務めた(幕内から十両への陥落時に四股名を「智乃花」に改名)。 当時の幕内では舞の海と並ぶ小兵の技能力士であり、舞の海戦の成績は幕内・十両を通算すると9勝9敗と全くの5分である。また、非常に珍しい決まり手である居反りで一度勝利したことのある力士としても知られる。現役中の決まり手は34種類で技のデパートと言われた舞の海(33種類)より多い。 2001年9月場所、十両下位で5勝10敗と負け越し幕下への陥落が決定的となったため、11月場所前に37歳で現役引退。引退後は、準年寄・智乃花から年寄・浅香山を襲名した(引退時に年寄名跡を取得していなかったため、大関・魁皇から借用)。智乃花本人によれば幕下に落ちた直後(西幕下3枚目)で勝ち越せば十両復帰できたので続けるつもりだったが、怪我で満足な稽古ができず同場所前に引退を決めたとのこと。 2005年4月には立浪との部屋経営や指導方針を巡る意見の相違を理由に、立浪部屋から同門の友綱部屋へ移籍し、後進の指導に当たっている。2006年3月、年寄・玉垣を襲名(元小結・若浪こと先代玉垣の停年退職後に名跡を取得)。 従弟の成松由紀夫も元幕下力士で、現在は熊本県八代市議である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「智ノ花伸哉」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Tomonohana Shinya 」があります。 スポンサード リンク
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