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牧野秀成 : ウィキペディア日本語版
牧野秀成[まきの ひでなり]
牧野 秀成(まきの ひでなり、生年不詳 - 寛永14年6月6日1637年7月17日))は、牧野康成の次男。初代越後長岡藩牧野忠成の異母弟。主水正。
兄の忠成は性格が激しく、弟の秀成は温厚で人望があり、秀成を担ぐ勢力が藩内にあった。長岡城の留守居を任されていたといわれる。しかし、秀成は寛永6年(1629年)8月に槙村の文殊院正徳寺、のちに古志郡椿沢村(現在の見附市)の椿沢寺に幽閉されたが、暗殺または、詰め腹を切らされたという伝説がある。秀成の没後、同年寛永14年(1637年)6月22日に兄忠成の嫡子・光成が急死し、その死により長岡藩は、忠盛と与板候・三根山候のお家騒動に発展した。このため、秀成の怨霊説が囁かれて、秀成は、弥彦神社付属の十柱神社に手厚く祭祀された。法名は冷光院殿昌誉覚了幻心居士。
秀成派18名の家臣は、与板に追放となったが、この18名の一部で、筋目の高い譜代の家臣(あるいはその末裔)は、後に与板候牧野氏の家臣団に、再仕官が許された者がいたようである(出典「小諸藩」「牧野家臣団」加藤誠一著)。



抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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