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津田晴一郎 : ウィキペディア日本語版
津田晴一郎[つだ せいいちろう]
津田 晴一郎(つだ せいいちろう、1906年7月26日 - 1991年9月20日)は、島根県松江市出身の日本陸上競技選手(長距離)。1928年のアムステルダムオリンピックと1932年のロサンゼルスオリンピックマラソンに出場し、連続して入賞を果たした。
== 人物・来歴 ==
旧制松江中学校(現・島根県立松江北高等学校)を経て関西大学予科に進学する。旧制中学時代から陸上競技を始めたが、当時は県内大会に出場する程度のレベルであった。
しかし、関西大学進学の頃から「なぜ日本のマラソン選手はオリンピックで勝てないのか」という疑問を抱くようになり、親交のあった大阪毎日新聞大阪朝日新聞の運動記者から資料を得て、研究を行うようになる。その中で、ハンネス・コーレマイネンパーヴォ・ヌルミをはじめとするフィンランドの長距離選手の強さに着目し、彼らのようなトラックでのスピードをつけることがマラソンで勝つために必要だと考えるに至る。このため、津田はいったんマラソンのトレーニングをやめ、トラック中長距離でのスピードを鍛える練習スケジュールを考案し、それに専念した〔1年目は1500m、2年目は5000m、3年目は10000mの練習に専念し、4年目にマラソンの練習を開始するというもの。〕。この当時、日本ではマラソンはまず耐久力が必要という考え方が支配的で、この津田のスタイルは当時としては特異なものであった〔 - 読売新聞「箱根駅伝2014特集 襷のメモリー」〕。関西大学が箱根駅伝に参加した1928年2月の第9回大会では5区を走り、区間記録を樹立している〔。
1928年4月に関西大学予科から慶應義塾大学に進学する。この理由については、その年の箱根駅伝で別のメンバーが若い女性から花束を受け取ったできごとをきっかけに陸上部内で紛争が発生、津田らに処分が下ったため、慶応に転学したとされる〔。津田は本格的にマラソンに対象を移し、アムステルダムオリンピックの一次予選と最終予選に出場、最終予選では山田兼松に次ぐ2位となり、代表に選ばれた。オリンピック本番では4位の山田に次いで6位入賞を果たす。津田はこれに満足せず、次のロサンゼルスオリンピックでの優勝を目指して、再びトラックでのスピードを鍛えるトレーニングを再開した。津田はロサンゼルス五輪前年まで、毎年日本陸上競技選手権大会のトラック競技で優勝を飾っている(1929年は1500m、1930年は1500mと5000m、1931年は5000mと10000m)。この間、1931年2月の箱根駅伝で再び5区を走っている。1931年3月に慶大を卒業すると常磐生命(朝日生命の前身会社の一つ)に入社した。
1932年5月のオリンピック最終予選では後半先行するも終盤で疲労のため後退し、権泰夏金恩培の2人の朝鮮半島出身選手に続いて3位であったが、2大会連続の代表に選出された(このときの上位3名が代表となる)。津田はオリンピック前年の1931年には4ヶ月にわたる現地遠征を行い、コースの下見を行うなど十分な準備をしており、国内からは金メダル獲得の強い期待が寄せられていた。8月のレース本番では前回より順位を1つ上げる5位入賞となる。2大会連続の入賞は日本の男子マラソン選手では初めてで、戦後まで含めても他に君原健二(1968年銀メダル・1972年5位)と中山竹通(1988年4位・1992年4位)の2人しかいない記録であるが、事前の期待ゆえに日本ではむしろ失望感が先行することとなった〔大日本体育協会の『第十回オリンピック大会報告』にはマラソンについて「此度こそは優勝と云う大なる期待がかけられていただけに、失望も大きかった。」と記されている。〕。
二度にわたるオリンピック出場でメダル獲得がならなかった津田は、ロサンゼルス五輪後に現役を引退した。現役中、出場したマラソンは2度のオリンピックの予選(一次と最終)およびオリンピック本番の6度で、高頻度でのレース出場が通例であった戦前の日本のマラソン選手としてはきわめて少ない部類に属する。これは上記のようなスピード重視の考え方によるトレーニングを行ったことがその理由であった。
引退後、津田はベルリンオリンピックのマラソン代表コーチに就任するが〔津田はロサンゼルス五輪でも選手兼任でコーチという立場であった。〕、ベルリンへの出発一週間前に辞任した。これについては、ロサンゼルス五輪の代表であった権泰夏が「津田がコーチでは勝てない」という趣旨の投書や手紙を新聞や織田幹雄に送り、選手の間からも(朝鮮半島出身の孫基禎南昇龍を中心に)コーチの交代を求める声が起きたためとされる。ロサンゼルス五輪の際に朝鮮半島出身ランナーとの間に感情的なしこりを残したことが、この辞任の背景にあったとみられる〔コーチでもあった津田は、他の2名が自分より前に出ることを控えるように指示したが、2人は指示に従わずに飛び出したためそれが成績不振の原因だと述べた。これに権泰夏は強く反発した経緯がある。〕。ただし、生前の津田は選手からの排斥については否定し、自らの体調不良(肋膜炎)が辞任の原因であると語っていた。大日本体育協会によるベルリンオリンピックの公式報告書にも「病気不参加」と記されている〔大日本体育協会『第11回オリンピック大会報告書』1937年、p41〕。
戦争中は商工省の外郭団体に勤め、紙の統制機関に関与した。戦後、津田はその経歴も生かしてスポーツニッポン社を創立し、初代社長に就任した。1946年の第1回毎日マラソン(現:びわ湖毎日マラソン)ではスターターを務めた〔昭和毎日 びわ湖毎日マラソン、第1回は大阪で 参加賞は足袋用ゴム - 毎日新聞社〕。日本からボストンマラソンに選手を派遣した際には数度指導者を務めており、田中茂樹(1951年)、山田敬蔵(1953年)の優勝に立ち会っている。
二度目のロサンゼルスオリンピックの開催を翌年に控えた1983年には、文藝春秋のスポーツ雑誌『Sports Graphic Number』の記事で、1932年のロサンゼルス五輪当時を回想する証言が紹介された〔小林信也「1932年、ロスの街を走った日本人」、No.89(1983年12月20日号)p22 - 23〕。それによると、津田とともに優勝候補に挙げられていたヌルミがアマチュア規定抵触の疑いで出場できなくなり、「ヌルミと一生に一度、競技生命を賭けた戦いをしたい」と思っていた津田はショックを受けたという。また、レース中は中間地点を過ぎた地点に補給として置いたはずのグレープ・ジュースがなく、「そこでひと息ついてそれから勝負をかける作戦」を立てていた津田にとって一番ショックだったとも述べている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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