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太田資顕 : ウィキペディア日本語版
太田資顕[おおた すけあき]
太田 資顕(おおた すけあき、? - 天文16年10月9日1547年11月21日))は、戦国時代武将。別名は資時(すけとき)。左京亮。信濃守。全鑑(ぜんかん)。太田資頼の嫡男。太田資正の兄。妻は成田親泰の娘。娘は上杉憲盛正室
父や弟と共に扇谷上杉氏に仕えた。1533年、父の隠居により家督を相続した。主家の衰退に伴い後北条氏との関係を次第に強めていき、天文15年(1546年)3月には北条氏に「逐日入魂」していたとされ、その直前には北条氏に仕えていた太田景資康資の庶兄)と内通を試みて主君・上杉朝定河越城攻略への参加に応じなかった。同年4月、河越夜戦で上杉朝定が北条氏康に敗れて戦死したため、正式に後北条氏の家臣となった。また、臨済宗を篤く信じていたといわれる。
天文16年(1547年)10月9日死去。享年は不詳だが、没時にはすでに孫がいた〔資顕の娘は遠山綱景の嫡子藤九郎に嫁いで一女を生んだが、藤九郎が21歳で早世したため母子とも資顕(当時は出家して全鑑)に引き取られた。資顕没後反北条派の資正が当主となったため、資顕の妻と合わせて三人とも成田長泰に引き取られた。その後資顕の娘(遠山藤九郎妻)は上杉憲盛に再嫁し、藤九郎の娘は成田長親(長泰の弟泰季の子)の妻となった。〕。男子がいなかったため、家督は弟の資正が継承した。
==脚注==


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「太田資顕」の詳細全文を読む



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