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太田光二 : ウィキペディア日本語版
太田光二[おおた みつじ]

太田 光二(おおた みつじ、1900年3月20日 - 1973年1月7日)は、日本政治家新聞記者。第13-15代岡崎市長(3期)、愛知県議会議員岡崎市議会議員全国市長会副会長、日本消防協会副会長などを歴任した〔『市政だより おかざき』1973年1月15日号、3頁。〕。
== 経歴 ==
愛知県額田郡下山村田代(現・豊田市下山田代町)に生まれる〔『東海新聞』1958年9月23日〕〔太田が生まれた額田郡下山村田代は1956年(昭和31年)9月30日、東加茂郡下山村に編入された。そして2005年(平成17年)4月1日に豊田市に編入された。〕。広幡町立広幡尋常高等小学校(現・岡崎市立広幡小学校)卒業〔『全岡崎知名人士録』 3頁。〕〔『愛知新聞』1959年4月21日〕。
1916年(大正5年)から25年間、『岡崎朝報』、『三河日報』、『名古屋新聞』、『名古屋毎日新聞』などの記者として鳴らした〔。『三河日報』では編集長も務めた〔『新編 岡崎市史 総集編 20』 307頁。〕。
その一方で政界に進むことを志し、1928年(昭和3年)10月5日執行の岡崎市会議員選挙に出馬するも落選〔『岡崎地方史話』東海新聞社出版局岡崎地方史話刊行会、1976年8月15日、281頁。〕。同年11月、立憲民政党岡崎支部である岡崎民政倶楽部が分裂し、岡崎民政青年団が設立されると、太田は同団体の常任幹事となった〔『岡崎市議会史 上巻』 515頁。〕。
1932年(昭和7年)10月5日の市議選で初当選。また1939年(昭和14年)4月、広幡警防団長を拝命し消防活動に挺身した。1945年(昭和20年)7月20日の岡崎空襲に際しては、7時間余りにわたって猛火の阻止に当たり能見町、元能見町、福寿町、材木町一帯の警備区域防衛に成功した〔『東海新聞』1958年3月4日〕。1948年(昭和23年)5月18日から1951年(昭和26年)4月7日まで岡崎市議会議長を務め〔『岡崎市戦災復興誌』 252頁、290頁。〕、竹内京治市長とともに戦災復興土地区画整理事業を意欲的に推進した〔『日本の歴代市長 第二巻』 464頁。〕。岡崎市は戦災都市の中でも復興成績がとりわけ優秀だったため、1949年(昭和24年)6月27日に全国の「戦災復興モデル都市」に指定されている〔『岡崎市戦災復興誌』 1207頁。〕。
そのほか1939年(昭和14年)9月、愛知県会議員選挙に民政党から出馬して初当選した〔『新編 岡崎市史 近代 4』 1221頁。〕。1950年(昭和25年)8月30日から1951年(昭和26年)4月29日まで愛知県議会議長を務めた〔『愛知県議会史 第九巻』 237頁。〕。1958年(昭和33年)3月7日、消防行政功績者として藍綬褒章受章〔『愛知新聞』1958年3月4日〕。戦後は『中部消防新聞』の社主も兼ねた〔『岡崎市戦災復興誌』 1176頁。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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