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パウル・シュピーゲル : ウィキペディア日本語版
パウル・シュピーゲル

パウル・シュピーゲル(, 、本名 イツハク・ベン・ハイム・パウル・シュピーゲル), 1937年12月31日 - 2006年4月30日)は、ドイツジャーナリストドイツドイツ・ユダヤ人中央評議会Zentralrat der Juden in Deutschland) の議長を務めた。

== 経歴 ==
ヴェストファーレンのフェアスモルト生まれ。ナチスの台頭に伴い、ユダヤ人である一家は近くの農村に隠棲する。さらに1938年の「水晶の夜」ののち、一家でブリュッセルに移る。彼自身はある農家に隠れて難を逃れたが、姉妹のRosaは逮捕され、後にベルゲン・ベルゼン強制収容所で死去。父親も逮捕され、ブーヘンヴァルト強制収容所アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所ダッハウ強制収容所などに収容されたが生き残り、シュピーゲルと母親は戦後になって父親と再会することが出来た。第二次世界大戦の終結後、一家はドイツの故郷に戻る。父はそこでシナゴーグを再建した。この辺りの経緯は彼の自伝『Wieder zu Hause?』に詳しい。
1958年からデュッセルドルフの新聞『ユダヤ週刊新聞』でボランティアとして働き始める。1965年まで同社に編集者として勤務。その他モントリオールアムステルダムバーゼルユダヤ人向け新聞社や、ドルトムント、デュッセルドルフの一般紙で働く。1973年から1974年、『モードと住宅』誌の編集長。その後12年間にわたりライン貯蓄銀行協会会長を務める。1986年に芸術・メディアのエージェンシーを設立。1991年からWDR(西ドイツ放送)の顧問委員。
1967年にデュッセルドルフのユダヤ人コミュニティの評議会員に就任。1978年に執行部会員、1984年から2002年まで議長を務めた。1989年にドイツ・ユダヤ人中央評議会指導部会に入り、1989年から2000年までドイツ・ユダヤ人福祉部会長。1993年からドイツ・ユダヤ人中央評議会執行部副議長。1995年ノルトライン=ヴェストファーレン州のユダヤ人コミュニティの代表。2000年1月9日、イグナツ・ブービスの後任としてドイツ・ユダヤ人評議会議長に就任。議長として2003年1月にドイツ政府とユダヤ人中央評議会の間で結ばれた協約に調印。またドイツ国内に建設されたシナゴーグの開所式に初めてイスラエル大統領の参列を実現した。
1964年にギゼレ・シュパッツと結婚し二女をもうけた。2006年3月、心臓発作を起こしたうえ肺炎を併発し昏睡状態に陥る。4月30日朝に死去。デュッセルドルフ北墓地に埋葬された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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