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ヌーレッディン・パシャ : ウィキペディア日本語版
ヌーレッディン・パシャ

ヌーレッディン・パシャ (、1873年; ブルサ–1932年2月18日; イスタンブル)は、 オスマン帝国末期およびトルコ共和国初期の陸軍軍人。トルコの政治家。第一次世界大戦で、少将の第6プーナ師団を追撃しクート・エル・アマラで包囲したこと、トルコ独立戦争で、西部戦線の第1軍司令官を務めたことなどにより知られている。トルコでは、顎鬚のヌーレッディン () とも呼ばれる。また、墓碑銘には、ヌーレッディン・イブラヒム・コンヤル ()と記されている。
==オスマン時代==
ヌーレッディンは、1873年にブルサで生まれた。父はオスマン軍の将官ミュシル (元帥)イブラヒム・パシャ〔T.C. Genelkurmay Harp Tarihi Başkanlığı Yayınları, ''Türk İstiklâl Harbine Katılan Tümen ve Daha Üst Kademlerdeki Komutanların Biyografileri'', Genkurmay Başkanlığı Basımevi, Ankara, 1972, p. 31. 〕であった。1890年、イスタンブルのパンガルトゥにあった陸軍士官学校 (1309年入学組)に入校し、1893年、31席で同校を卒業し、歩兵少尉 (''Mülâzım-ı Sani'')として任官した。〔 ヌーレッディンは、陸軍大学 (参謀学校)を修了していない数少ない高級将官の一人である。〔Edward J. Erickson, ''Ottoman Army Effectiveness in World War I: A comparative study'', Routledge, New York, 2007, ISBN 978-0-415-77099-6, p. 75.〕 クラスには、ナージ・エフェンディ (歩兵科17席)、ミュムターズ・エフェンディ (歩兵科99席)らが、コレスには、リュシュテュ・パシャ (工科砲兵科8席)らがいた。母国語のほかに、アラビア語、フランス語、ドイツ語とロシア語を解した。〔
ヌーレッディンは、1893年3月から4月の間、第5軍隷下の第40歩兵大隊に勤務した後、1893年の4月から10月まで直隷軍 (''Hassa Ordusu''、第1軍)に配属された。〔T.C. Genelkurmay Harp Tarihi Başkanlığı Yayınları, ''Türk İstiklâl Harbine Katılan Tümen ve Daha Üst Kademlerdeki Komutanların Biyografileri'', p. 32. 〕 1895年1月31日、中尉 (''Mülâzım-ı Evvel'')に、同年7月22日には大尉 (''Yüzbaşı'')に昇進した。〔
1897年の希土戦争に、アラソニヤ軍司令官エドヘム・パシャの副官として従軍し、〔 イスタンブルに帰還した後、第1軍司令部の第1課 (作戦課)に配属された。1898年10月、 スルタン・アブデュルハミト2世の副官となり、1901年には、少佐 (''Binbaşı'')に昇進し、1902年までブルガリア国境司令部の参謀団に勤務した。〔 1902年から1903年まで、マケドニア地方でゲリラ討伐戦に従事した。〔
1907年、中佐 (''Kaymakam'')に昇進したヌーレッディン・ベイは、同年12月、セラーニク (現在のテッサロニキ)にある第3軍司令部に配属され、1908年には、大佐 (''Miralay'')に昇進した。1908年の青年トルコ人革命の前に、ミュシル・イブラヒム・パシャが第3軍内の統制を図ろうとしたとき、ジェマル・ベイ少佐と統一と進歩委員会の他の会員が、イブラヒム・パシャに目こぼしするよう警告すべく、息子ヌーレッディン・ベイの取り込みを図り、〔Andrew Mango, ''Atatürk'', John Murray, 1999, ISBN 978-0-7195-6592-2, p. 73.〕ヌーレッディン・ベイは、統一と進歩委員会に加入した (会員番号6436)。〔Kâzım Karabekir, ''İttihat ve Terakki Cemiyeti'', Emre Yayınları, 1982, p. 180.
1909年8月19日、「軍階級降格法」 (''Tasfiye-i Rüteb-i Askeriye Kanunu'')に従って、少佐に降格され、〔 予備役として第1軍に送られた。1909年9月、キョチュクチェキメジェ郡知事に任命され、1910年4月、第77歩兵連隊長代理に〔、その後、 第83歩兵師団第1大隊長に任命された。〔
1911年2月、ヌーレッディン・ベイは、第14軍団に配属されイエメンでの叛乱の鎮圧に従事し、中佐に昇進した。11月には、第14軍団で予備役とされた。イエメンから戻り、バルカン戦争末期に第9歩兵連隊長として参戦した後、1913年にオットー・リーマン・フォン・ザンデルスのドイツ軍事使節団 (German: ''Deutsche Militärmissionen im Osmanischen Reich'', Turkish: ''Alman Hey'et-i Askeriyye-i Islâhiyyesi'') のもとで編成された模範部隊に配属された。〔

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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