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ダチア戦争 : ウィキペディア日本語版
ダキア戦争[だきあせんそう]

ダキア戦争(ダキアせんそう、, )は、101年から102年、および105年から106年の2次に渡るローマ帝国ダキア人との戦争である。なお、ドミティアヌス帝期に発生したダキア人との戦争を含めてダキア戦争と呼ぶ場合もある。
==背景==
紀元前70年に全ダキアを統一したブレビスタ王統治下のダキアはローマにとって脅威であったが、ブレビスタの死後にダキアは部族毎に4-5の集団へ分裂して弱体化。個々のダキア部族によるローマ領内への侵犯はあったものの、ローマ国内での内戦やユダヤ属州ブリタンニアなどでの反乱への対応に追われていたこともあって、ダキア人との間で大きな戦争には至らなかった。
その後、ダキアが再び統一され、86年に属州モエシアを含むドナウ川流域のローマ帝国領への本格侵入が相次いだため、ローマ皇帝ドミティアヌスはダキアに対する備えとして親衛隊長であったコルネリウス・フスクスを軍(2個軍団)と共にモエシアへ派遣した。87年デケバルスを王とするダキアに対してドミティアヌスは戦端を開くことを決定しローマ軍はダキア軍とタパエ近郊で激突したが、ダキア軍が完勝してフスクスは戦死した。88年、前年の雪辱を期すローマは再度、ティトゥス・ユリアヌス(Tettius Iulianus)を指揮官としてダキア領へ侵攻。今度はローマ軍が勝利を収め、ダキア軍は敗走したものの、ゲルマニア・スペリオル属州総督ルキウス・アントニウス・サトゥルニヌス(en)による反乱が起こったため、ローマ側の申し入れによりローマとダキア人は平和協定を締結することで合意した。ただし、その内容はローマがダキアへ賠償金を払う条項があるなど、ローマにとって屈辱的なものであった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ダキア戦争」の詳細全文を読む



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