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スマラン慰安所事件 : ウィキペディア日本語版
スマラン慰安所事件
スマラン慰安所事件 (すまらんいあんじょじけん)とは、日本軍占領中のインドネシアで日本軍の軍令を無視した一部の日本軍人がオランダ人女性を監禁強姦した事件のこと。別名、スマラン事件スマラン事件は、1945年にスマランで起きた別の事件のことも指す。〕。とも。
1944年2月、南方軍管轄の第16軍幹部候補生隊が、オランダ人女性35人を民間人抑留所からスマランにあった慰安所に強制連行し強制売春させ強姦した容疑で、戦後、国際軍事裁判において(将官や兵站責任者の佐官などの高級将校を含む)当該軍人軍属(請負業者)たちに有罪が宣告されている。

== 概要 ==
オランダの軍事裁判の報告を調査した吉見義明によれば、
* 当時スマランには既に慰安所があったが、性病の蔓延から新たな慰安所の設置が計画された。慰安所設置を要請された幹部候補生隊長は、慰安所には自由意思の者だけ雇うようにというジャカルタの第16軍司令部のガイドラインを無視した。(ガイドラインは未発見であるが証言やスマトラの第25軍の類似の通達からそのように考えられている。)
* 複数の将校と慰安所業者は、ハルマヘラ抑留所、アンバラワ抑留所、ゲダンガン抑留所から17歳から28歳の合計35人のオランダ人女性を強制的に集め、スマラン市内のカナリ通りの建物で日本語で書いた趣旨書への署名を強制した後、スマランの4つの慰安所(将校倶楽部、スマラン倶楽部、日の丸倶楽部、青雲荘)に連行した。
* 3月1日から営業を始め、女性達は毎日強姦された。給料は払われず、暴行され、その上、性病を移された者、妊娠した者がいる。週に1度医師の身体検査があったが、充分な治療はほとんど行われなかった。
* しかし自分の娘を連れ去られたオランダ人リーダーが、陸軍省俘虜部から抑留所視察に来た小田島董大佐に訴え、同大佐の勧告により16軍司令部は、1944年4月末に4箇所の慰安所を閉鎖した。(小田島大佐の視察は、事件と前後して抑留所の管理が軍政監部から現地軍司令部に移管したためのもの)吉見は、軍は責任者を「少なくとも厳罰に処してはいない〔東京新聞 「こちら特報部」2013年2月23日〕」としている。
* 終戦後の1948年、バタビア臨時軍法会議でBC級戦犯として11人が有罪とされた。罪名は強制連行、強制売春(婦女子強制売淫)、強姦である。有罪者は、軍人および慰安所を経営していた日本人業者等であり、責任者である岡田慶治陸軍少佐には死刑が宣告された。また、中心的役割をはたしたと目される大久保朝雄(広島出身)陸軍大佐は戦後、日本に帰っていたが軍法会議の終了前に自殺した。裁判では、慰安婦にされた35人のうち25名が強制だったと認定された)〔バタヴィア、第69号裁判(ただし、資料によっては第70号裁判とする)。この資料は、日本の国立公文書館にて閲覧可能。〕。
としている〔本項ここまでの出典は「従軍慰安婦」吉見義明 岩波新書 1995〕。
一方、オランダ人女性の強力な抵抗により若い女性が連行されることを防いだ抑留所(スモウォノ・バンコン・ランペルサリ)もあった。年上の女性たちが志願することで、若い女性が助かった事例もあった。これらの身代わりとなった女性は「志願者」と呼ばれた(この件では戦犯裁判で無罪)〔女性のためのアジア平和国民基金:「慰安婦」問題調査報告・1999〕。
1994年のオランダ政府の報告書では、インドネシア各地の慰安所で働いていた200~300人のオランダ人女性のうち少なくとも65人は絶対確実に(most certainly)強制売春の犠牲者だったとされている〔日本占領下蘭領東インドにおけるオランダ人女性に関する強制売春に関するオランダ政府所蔵文書調査報告〕。
1990年に対日道義的債務基金(JES)が結成され、日本政府に対し、その法的道義的責任を認めて一人当たり約2万ドルの補償を支払うよう求める運動が始まった。これに対し日本政府は、アジア女性基金により総額2億5500万円の医療福祉支援を個人に対して実施し、2001年オランダ人女性に対する「償い事業」が終了した〔アジア女性基金:デジタル記念館「慰安婦問題とアジア女性基金」〕。
しかし2007年、オランダ議会下院で、日本政府に対し「慰安婦」問題で元慰安婦への謝罪と補償などを求める慰安婦問題謝罪要求決議がなされた。2008年に訪日したマキシム・フェルハーヘン外相は「法的には解決済みだが、被害者感情は強く、60年以上たった今も戦争の傷は生々しい。オランダ議会・政府は日本当局に追加的な意思表示を求める」〔http://mainichi.jp/select/world/archive/news/2008/10/25/20081025ddm007030117000c.html〕と述べ、日本側の償い事業の継続を求めた。
また同2007年、米国議会での慰安婦聴聞会にこの事件の被害者・証人としてたったジャン・ラフ・オハーン(ジャンヌ・オヘルネとも表記)は、 当時19歳だった42年、日本軍占領後、収容所に入れられ、「日本式の花の名前が入った名前を付けられ、髪が薄い日本軍将校が待つ部屋に連れて行かれた。 彼は刀を抜いて‘殺す’と脅した後、服を破り、最も残忍に私を強姦した。その夜は何度強姦されたか分からない」「一緒に連行されたオランダ人少女らと3年半、毎日こうした蛮行にあい、飢えて苦しみ、獣のような生活をした」と証言し、「日本は95年にアジア慰安婦財団を作って私的な補償をしたというが、これは慰安婦に対する侮辱」とも主張。 「日本は政府レベルで残虐行為を認め、行動で謝罪を立証しなければならず、後世に正しい歴史を教えなければならない」と求めた。 「日本人は私たちが死ぬのを待っているが、私は死なない」とし、日本が正式に謝罪するまで闘争を続けるとした。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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