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サロン・キティ : ウィキペディア日本語版
サロン・キティ

サロン・キティ()は、1930年代から1940年代にかけてドイツの首都ベルリンにあった高級娼館1939年から1942年にかけての時期は、SD親衛隊(SS)内部におかれた情報部)が経営を乗っ取り、諜報目的で運営していた。
== 諜報用の娼館というアイデア ==

要人たちが使うような高級娼館を諜報活動に使うというアイデアは、親衛隊幹部で情報部門を掌握していたラインハルト・ハイドリヒによるものだが、実行に移したのはその部下のヴァルター・シェレンベルクだった。ハイドリヒやシェレンベルクのアイデアは、ドイツ各界の要人たちや各国外交官らを酒と女性でもてなし、枕元で女性に対してナチ党や政府への率直な意見や不満、自国の内密の情報などを打ち明けるのを傍受して、不満分子を摘発したり機密情報を得たりするのに役立てようというものだった。娼館にSDのエージェントを浸透させるという案に対し、シェレンベルクは娼館そのものをSDが乗っ取り経営することを主張した。
乗っ取りの対象となった高級娼館サロン・キティは、シャルロッテンブルク区ギーゼブレヒト通り(Giesebrechtstrasse)11番地にあった。この地区はベルリン西部の裕福な階層が暮らす地区で、サロン・キティの主な顧客はドイツ各界の高位の人物や、各国の外交官などであった。爛熟したヴァイマル文化の残る1930年代初頭以来、この高級娼館を経営していた女主人(マダム)は、1882年生まれのキティ・シュミット(Kitty Schmidt, 本名 Katharina Zammit)という人物であった。キティ・シュミットは、ナチ党の権力掌握以来、他国へ亡命しようとする人々をひそかに助けつつ、自らもイギリスの銀行へ送金を続けていた。彼女自身もついに国外へ逃げようとしたが、1939年6月28日、SDのエージェントによりオランダとドイツの国境で逮捕され、ベルリンのゲシュタポ本部へと送られた。
シェレンベルクはキティ・シュミットに面会し、サロン・キティをSDに使わせてナチ党の諜報活動に協力するか、SDへの協力を拒否して強制収容所へ送られるかの二者択一を迫った。SDはサロン・キティを「改装」の名目で一時閉店し、その間に大量の盗聴マイクロフォンを全館に仕掛けた。マイクからの送信線は地下室に引き込まれ、そこから顧客たちの話の傍受・監視を行うテーブルや録音用機器などが備えられた部屋へと続いていた。
この娼館でエージェントとして働く女性を確保するため、ベルリンの道徳警察(風紀警察、Sittenpolizei)が逮捕した多数の娼婦の中から、頭がよい、多国語を理解する、思想的にナチス寄りなど、エージェントの素質がある者20人を選出した。彼女らは7週間にわたり厳しい思想教育や訓練を受けた。その中には各種の軍服の見分け方や、他愛のない会話から機密を収集する方法などもあった。彼女らは顧客を相手するごとに報告を行うことが義務付けられた。一方で、隠しマイクが部屋毎にあることについては知らされていなかった。
1940年3月、サロン・キティは営業を再開した。キティ・シュミットは、何事もなかったかのように営業を続けるよう命じられた。ただし、「私はローテンブルクから来たのだが」という合言葉を言った客に対してのみ、普通の顧客には見せない20人の女性の情報が載った冊子を見せるよう指示された。客はその中から一人を選んで夜を共に過ごすことになっていた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「サロン・キティ」の詳細全文を読む



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