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カリフォルニア伝道 : ウィキペディア日本語版
カリフォルニア・ミッション

カリフォルニア・ミッション(、)はスペインカトリック教会フランシスコ会士)によるヌエバ・エスパーニャ北西部(現在のアメリカ合衆国カリフォルニア州)への宣教活動とそのために建てられた伝道所などの施設の総称である。1769年から1823年までに21ヶ所の伝道所と多くの補助的な建築物、軍の前哨基地などが各地に造られ、先住民族に対する宣教を行った。宣教師達の中でもフニペロ・セラの実績が数的に際立っているが、宣教の方法に問題があった為に批判を受けている〔増井志津代「多様と統一:植民地時代アメリカの宗教 」''The journal of American and Canadian studies'' 17, 89-117, 2000-03-31.〕。
伝道所はスペインによる太平洋岸エリアへの侵略を推し進める重要な拠点としても機能し、ヨーロッパからは多くの家畜、穀物、果物、野菜、文化、そして産業がもたらされた。その反面、戦闘や伝染病などによって先住民族は激減した。
10ヶ所の伝道所が建てられた時点で建築がストップしかけたが、各伝道所の距離が離れていることを修道士フェルミン・ルスエンが主張した為に、更なる建築が進められた〔Bill Yenne,The Missions of California, p. 132; also, John E.Bennet,Should the California Missions Be Preserved? - Part II 1897b, p. 152: "''With the ten missions first established, the occupation of Alta California may be said to have been completed...They were, however, at wide distances apart, and for the sake of mutual protection and accessibility, as well as for the better conducting of the work of spiritual subjugation of all the Indians, it was necessary that the intervening spaces be settled by additional missions. It was accordingly ordered by the Mexican viceroy, the Marquis de Branciforte, that five new missions should be established, to be placed on lines of travel as near as might be between the existing missions...''"〕 。
現在、これらの伝道所はカリフォルニア州で最も古く人気の高い歴史的建築物群になっている。
大部分の伝道所は今も機能し、周囲のカトリック信者達に利用されている。
== 歴史 ==
1492年クリストファー・コロンブスによる新大陸の発見以降、スペインはヌエバ・エスパーニャにおけるカトリック布教に熱心であった。植民地支配を容易くすることが目的だったが、カリフォルニアでの布教は地理的に後回しになった。
1741年に探検家ヴィトゥス・ベーリングアラスカに到着、ロシア帝国北アメリカ大陸への野心が判明し、スペイン王フェリペ5世はカリフォルニア支配の必然性を悟った〔Charles E.Chapman, Ph.D.,A History of California;The Spanish Period, p. 216: "''It is usually stated that the Spanish court at Madrid received reports about Russian aggressions in the Pacific northwest, and sent orders to meet them by the occupation of Alta California, wherefore the expeditions of 1769 were made. This view contains only a smattering of the truth. It is evident from José de Gálvez's correspondence of 1768 that he and Carlos Francisco de Croix had discussed the advisability of an immediate expedition to Monterey, long before any word came from Spain about the Russian activities''."〕。カリフォルニアは遠く離れた植民地であり、しっかりとした拠点を置いて統治することが不可欠であった。先住民族を改宗させると共にスペイン語を習得させ、スペインに納税させることまでを目的に定めた。この頃、先住民族の人口は約30万人で、100部族以上に分かれていたとされる〔Alfred L. Kroeber,A Mission Record of the California Indians 1925, p. vi.: "''In the matter of population, too, the effect of Caucasian contact cannot be wholly slighted, since all statistics date from a late period. The disintegration of native numbers and native culture have proceeded hand in hand, but in very different rations according to locality. The determination of populational strength before the arrival of whites is, on the other hand, of considerable significance toward the understanding of Indian culture, on account of the close relations which are manifest between type of culture and density of population''."〕〔Chapman, p. 383: "''...there may have been about 133,000 native inhabitants in what is now the state as a whole, and 70,000 in or near the conquered area. The missions included only the Indians of given localities, though it is true that they were situated on the best lands and in the most populous centres. Even in the vicinity of the missions, there were some unconverted groups, however''." See :en:Population of Native California.〕

1767年1月29日、フェリペ5世の後を継いだカルロス3世は、バハ・カリフォルニアに15ヶ所の伝道所を建てたイエズス会修道士達を追放〔Bennett, p. 15: Due to the isolation of the Baja California missions, the decree for expulsion did not arrive in June of 1767, as it did in the rest of New Spain, but was delayed until the new governor, Portolà, arrived with the news on November 30. Jesuits from the operating missions gathered in Loreto, wherupon they left for exile on February 3, 1768.〕。
1768年3月12日ホセ・デ・ガルベス将軍がフランシスコ会と接触、フニペロ・セラの指揮によってアルタ・カリフォルニアでの布教を進めることが決まった〔Bennett 1897a, p. 16〕 。また、バハ・カリフォルニアの伝道所はドミニコ会に任された。
1769年7月14日、伝道所の建築の為、フニペロ・セラはサンディエゴへ、バハ・カリフォルニアの総督ガスパル・デ・ポルトーラモントレーに向かう〔Bill Yenne,The Missions of California, p. 10〕。カリフォルニアにおける最初の伝道所ミッション・サンディエゴ・デ・アルカラが建築された。
1769年7月22日、モントレーへの道中、先住民族の村を通過する際に、修道士フランシスコ・ゴメスフアン・クレスピが2人の死にかけた少女を見つけ、カリフォルニアで記録の残る限り初めての洗礼を行った〔Randy Leffingwell,California Missions and Presidios: The History & Beauty of the Spanish Missions, p. 25〕 。
1771年末、ポルトーラがサンフランシスコ湾を探検し、1774年から1791年にはもっと大規模なスペイン軍によって太平洋岸北西部の調査が行われた。
各伝道所の運営は教区司祭に引き継がれ、 また周辺の管轄地は整備後10年以内に住民達に分配された。これらの手法はメキシコペルーなどの植民地における経験に基づいていた。この頃の各伝道所は自給自足が出来る状態ではなく、メキシコのカトリック教徒達から集められた寄付による援助を受けていたが、それも1810年メキシコ独立革命によって得られなくなってしまった。1800年頃にはミッション・インディアンが労働力の中心となっていた〔James Rawls, Indians of California: The Changing Image, p. 106〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Spanish missions in California 」があります。



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