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アスカロンのアンティオコス : ウィキペディア日本語版
アスカロンのアンティオコス

アスカロンのアンティオコス (、紀元前125年 - 紀元前68年〔Tiziano Dorandi, ''Chapter 2: Chronology'', in Algra et al. (1999) ''The Cambridge History of Hellenistic Philosophy'', page 49. Cambridge.〕)はアカデメイア派哲学者。彼はアカデメイアでラリッサのフィロンの弟子だったが、フィロンやその先人たちのアカデメイア派懐疑主義からは離れた。彼はキケローの師匠で、プラトニストの中では最初の折衷主義者の新種であった。つまり、彼はプラトニズムストア主義逍遥学派の教義を導入することに努めた。また、フィロンに反対して、人間の魂は真偽の区別が可能だと宣言した。そうして、彼は古アカデメイア派の教義の復興を主張した。彼とともに中期プラトニズムとして知られる哲学の一時代が始まる。
==生涯==
彼はルキウス・リキニウス・ルクッルス(ミトリダテス6世の競争相手)の友人で、また、キケローがアテナイで学生だった頃(紀元前79年)の彼の友人であった。しかし彼はシリアでと同様にアレクサンドリアでも学派を形成し、そこで死んだようだ。〔Plutarch, ''Cicero'', c. 4; ''Lucullus'', c. 4; Cicero, ''Academica'', ii. 19.〕彼は当時非常に高名な哲学者であったようで、ストラボンがアスカロンについて記述する際にこの町の特徴としてアンティオコスの出身地であることにふれている〔Strabo, xiv.〕し、キケローが親愛の念が感じられる丁寧な調子で、彼はアカデメイア派でも最高の最も見識高い人物で、当代で最も洗練された知性鋭い哲学者だと度々述べている〔Cicero, ''Academica'', ii. 35; ''Brutus'', 91.〕。
アンティオコスはストア派のアテナイのムネサルコスのもとに学んだが、彼の最大の師はラリッサのフィロンであった。フィロンはアカデメイアでカルタゴのクリトマコスの後をついで学頭となった人物である。しかし、アンティオコスはフィロンの門下生というより反対者としてよく知られている。キケローはアンティオコスが師を反駁した論文を「ソースス(sosus)」と呼んでいるが、〔Cicero, ''Academica'', iv. 4.〕その論文でアンティオコスはアカデメイア派的懐疑主義を論駁している。「カノニカ(Canonica)」と呼ばれている彼のもう一つの著作はセクストス・エンペイリコスに引用されているが、論理学に関する論文だったようだ。〔Sextus Empiricus, vii. 201.〕
アンティオコスは、フィロンが「第四のアカデメイア」の創設者と呼ばれるのと同様に、「第五のアカデメイア」の創設者と呼ばれる。この時期は、紀元前86年のアカデメイアの破滅を招くことになる紀元前88年第一次ミトリダテス戦争の少し前から始まる。このころ、アンティオコスはアレクサンドリアに居住していた。彼はキケローが紀元前79年にアテナイに留学してくるまでにはアテナイに戻り、68年に死去したようだ。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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