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長井頼重 : ミニ英和和英辞書
長井頼重[ながい よりしげ]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [おさ]
 【名詞】 1. chief 2. head 
: [い]
 【名詞】 1. well 
: [おも]
  1. (adj-na,n) main 2. principal 3. important

長井頼重 : ウィキペディア日本語版
長井頼重[ながい よりしげ]
長井 頼重(ながい よりしげ、生没年未詳)は、鎌倉時代中期から後期にかけての人物、鎌倉幕府御家人
== 生涯 ==
系図類では、長井泰重の子で、長井貞重の父〔安田、1990年、p.431 「長井貞重」の項(執筆:下山忍)。〕〔『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』(コトバンク所収)「長井貞重 」の項 より。〕となっており、鎌倉幕府第5代執権北条時頼北条氏得宗家当主であった期間(1246年-1263年)内に元服〔元服はおおよそ10代前半もしくはこの前後で行われることが多かったことから、生誕年も(幅は広いが)1230年代1250年代の間であったと推定することができる。〕して、時頼より偏諱を受けた〔長井氏泰重流の歴代当主については生没年等を伝える史料が残っていないためその元服時期を推定することは難しいが、『常楽記元徳3年(1331年2月12日条に「長井縫殿頭他界。貞重六十」と長井貞重が60歳で死去したことが窺え、その元服時期を1281年1286年と推定することができ、貞重がその当時の得宗家当主・北条貞時烏帽子親子関係を結んだと考えることができる。よって、その名前からして泰重泰時頼重時頼、貞重が貞時、高広高時、といったように、嫡流(泰秀流)と同様に北条氏得宗家当主と烏帽子親子関係を結んでいたことが言える(以上、紺野淳論文(『中央史学』二、1979年、p.15系図・16~17)より)。長井氏大江広元の次男・時広を始祖とする鎌倉幕府の有力御家人であり(『世界大百科事典 第2版』「長井氏 」の項)、北条氏得宗家の烏帽子親関係による一字付与による統制下にあったとみられる(山野龍太郎論文(山本、2012年、p.163)、→北条氏#北条氏による一字付与について)。〕人物とみられる。母は海東忠成の娘〔「尊卑文脈」本大江系図〕。
長井氏一族は、嫡流である長井泰秀の系統が関東に住したのに対し、庶流であった泰秀の弟・泰重の系統は京都に住して六波羅探題の下で評定衆を務めるなど重要な地位を占めた〔安田、1990年、p.433 「長井泰重」の項(執筆:下山忍)。〕。また、この系統は備後国守護職を世襲しており〔西ヶ谷、1998年、p.213 および 安田、1990年、p.432・433。〕、頼重も六波羅評定衆や同国守護〔〔西ヶ谷、1998年、p.215。〕、そして父と同じく因幡守になった〔服部、1995年、p.417系図T-1・p.418。史料では『一代要記』弘安五年十二月十四日条(記事 国文学研究資料館-データベース内)に「因幡守頼重配流越後国」、「真言宗全書」の『野沢血脈集』に「因幡前司大江頼重」(前司は前の国司の意)、同じく「真言宗全書」の『血脈類集記』に(裏書)「覚雅法印 運雅僧都因幡守」と運雅の父が因幡守であった旨の記載が見られ、『尊卑分脈』とも総合して頼重が因幡守であったことが窺える。〕と伝わる。
弘安5年(1282年)、南都(興福寺)の強訴によって越後国に配流された〔史料では『勘仲記』(勘解由小路兼仲日記)弘安五年十二月六日条、『一代要記』弘安五年十二月十四日条(記事 国文学研究資料館-データベース内)などで確認ができる。 佐々木哲学校 - 備中守頼綱 佐々木哲によるブログ記事、2005年5月11日)の記述では頼重の配流先を土佐としているが、前掲史料から同月二十六日に流罪となった六波羅探題北方北条時村の被官人・弾正忠職直(もとなお)の配流先と混同した誤りとみられる。尚、佐々木哲(同前)は六波羅評定衆と寺社勢力が争いになった際に幕府や探題は評定衆を庇護することはなかったので、探題と評定衆が対立するようになり、この後の霜月騒動ではそれが表面化したとの見解を述べている。また、海津一朗の論文 「鎌倉後期の国家権力と悪党 -弘安の大隅・薪荘境界争論をめぐって-」(所収:悪党研究会編『悪党の中世』(岩田書院、1998年))では、亀山上皇院宣によって山城国大隅荘・薪荘関東一円地と変換されて「関東御領」となったのに伴い、六波羅の責任者である頼重・職直の両者が流罪になったとの見解が述べられている(服部英雄「新刊紹介 悪党研究会編『悪党の中世』」(所収:『史学雑誌』107-11号、1998年12月、p.123-126))。〕が、ほどなく処分は撤回されたようで、その後の弘安9年(1286年)の段階では頼重が備後守護となっており〔〔〔佐藤進一『鎌倉幕府守護制度の研究』 越後・備後の項。〕、子の貞重・貞頼も六波羅評定衆となっている〔〔〔ことが確認されている。
以後の活動は没年も含め不詳である。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「長井頼重」の詳細全文を読む




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