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荒勢永英 : ミニ英和和英辞書
荒勢永英[あらせ ながひで]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [はずみ]
 【名詞】 1. (1) bounce 2. spring 3. rebound 4. (2) momentum 5. inertia 6. (3) spur of the moment

荒勢永英 : ウィキペディア日本語版
荒勢永英[あらせ ながひで]

荒勢 永英(あらせ ながひで、1949年6月20日 - 2008年8月11日)は、高知県吾川郡伊野町(現在のいの町)出身で1970年代に活躍した大相撲力士、エイビープロモーションに所属していたタレントである。芸名は荒勢(あらせ)、本名は荒瀬 英生(あらせ ひでお)。 力士時代は花籠部屋に在籍し、最高位は東関脇1977年9月場所~1978年1月場所、1980年5月場所)。大相撲時代の体格は身長177cm、体重151kg。得意手は右四つ、寄り。公認候補者として所属した自由連合では、組織委員会文化スポーツ局次長を務めた。
==来歴==
実家は農家。高知中学校在学時より相撲を始め高知高校、日本大学と相撲部で活躍し、大学3年時には全日本相撲選手権大会で3位に入賞している。
大学卒業を目前にした1972年1月に花籠部屋へ入門し同月、幕下付出初土俵を踏んだ。当初の四股名は、本名の「荒瀬」。以来一度の負け越しも無く、1973年7月場所に於いて24歳で入幕を果たした。
大学時代の2年先輩でもある横綱輪島土俵入り露払いを務め、太刀持ちを務めた日本大学(柔道部)中退、輪島と同学年の魁傑とともに「日大トリオの土俵入り」と話題になった。
右四つからの激しいがぶり寄りが特徴で、もみ上げも個性的でいごっそうを連想させる人気力士の1人であった。しかし横綱・北の湖に弱く、27連敗(※初対戦からの連敗記録ではない。対北の湖、および同一の力士に対する初顔からの最多連敗記録は、金城の29連敗。金城は、結局幕内では、北の湖には1度も勝てなかった)を記録した。
また、立ち合いを合わせるのが下手で、「待った」の常連としてよく指弾された。1975年3月場所で敢闘賞を受賞した時には、立ち合いの悪さから受賞を見送るべきだという意見が三賞選考委員会の席上で出た。また1976年7月場所8日目に若三杉(のちの横綱・2代若乃花)と対戦した時は、「待った」を8回も繰り返し、勝負審判が土俵上に上がって両力士を注意する事態も起きた。
その他、これより三役のそろい踏みの時にも西方の扇の要の位置にあって後ろが見えなかったためか、あっさりと3回四股を踏んだ後振り返ると後方の力士はまだ2回目の四股にかかっていたということもあった。
全盛期は1977年からの約2年間で、その間8場所連続三役を務めたこともあった。元来がぶりしか攻め手の無い荒勢であったが、1977年9月場所では東関脇で11勝を挙げるとともに「がぶりも技術の一つである」と一芸が認められる形で、技能賞を獲得した。しかし三役での二桁勝利がこの場所だけにとどまったこともあり、「大関獲り」は夢に終わった。
現役晩年は右膝を故障して十両に下がり、西十両7枚目の地位で途中休場した1981年9月場所限り、32歳で引退。
場所後、年寄間垣を襲名し花籠部屋付きの親方となったが1983年2月、前月に引退した二所ノ関一門の横綱・2代若乃花に間垣の名跡を譲渡して日本相撲協会から去った。
以降はタレントに転向して、テレビ、CMなどで活躍。
2001年には、自由連合から比例代表で第19回参議院議員通常選挙に出馬したが、2,711票しか獲得できず落選した。その後2008年4月に脳梗塞で倒れ、実家がある高知県で療養していた。
同年8月11日、急性心不全のため死去〔荒瀬英生氏死去=大相撲元関脇 時事通信 2008年8月11日〕。。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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